ホラムゲン

木曜の献立

焼跡の無人売台に献立表と芋が残る夕景

昭和二十四年、私は十になったばかりで、母と二人、榎川市の復興住宅に住んでおりました。

復興住宅といえば聞こえは立派ですが、薄い板壁が風のたびに相談を始める長屋です。隣が味噌汁ならこちらも味噌汁、隣が夫婦喧嘩ならこちらは聞き役。母子二人には広すぎるほどでした。海の向こうから持ち帰れた家財は柳行李ひとつでしたからね。

長屋の南には焼跡が残り、その先に闇市がありました。昼間から鍋を鳴らす者、煙草を一本ずつ売る者、軍服を仕立て直した上着を並べる者。皆が商売人で、皆が客で、たまに巡査だけが商売抜きで走っておりました。

その闇市から少し外れた空地に、無人の売台ができました。

戸板ほどの屋根と三方の板壁、腰の高さの棚。馬鈴薯、細い大根、虫食いの菜っ葉が少しずつ載り、棚の端には茶筒を潰した代金箱が置いてある。紙札には墨で、

「御入用だけ。代は箱へ」

とありました。

珍しい店でした。あの頃は、置けば売れるより先に無くなる時代です。ところが品物は盗られず、代金箱も毎朝ちゃんと載っていた。誰が補充するのかは、誰も見ていない。まあ大人というものは、得な不思議には口を挟まないものです。

榎川第三小学校では給食が始まったばかりでした。給食と申しましても、脱脂粉乳とパン、それから芋の汁。粉乳は湯気まで粉っぽく、私どもは壁土を飲んだこともないくせに「壁土よりましだ」と評しておりました。

ある水曜の放課後、担任の亀井先生に呼び止められました。翌日の汁に入れる芋が足りず、例の売台を見に行くというのです。私は学校帰りの足でついて行きました。先生は買物籠、私は口だけ。役割分担としては実に公平です。

売台には芋が十個ほどありました。先生はガリ版刷りの献立表を棚に広げ、一人量と児童数を指で追ってから、芋を七個買いました。代金箱へ硬貨を落とすと、箱の底で、ころん、ころんと二度鳴りました。

硬貨は三枚でしたが、当時の金は働き者だったのでしょう。

風が吹いたため、先生は献立表を背板の釘へ引っかけました。紙の下には「給食当番」という欄があり、赤鉛筆で亀井と書かれていた。私は先生が署名したのだと思いました。

翌朝、亀井先生は学校へ来ませんでした。

代わりに、売台の奥に立っていました。

芋の後ろ、背板の前です。灰色の上着も、買物籠も昨日のまま。こちらを向いているのに、私を見てはいませんでした。口元だけが給食前の挨拶のように動きましたが、声は聞こえません。

狭い売台です。人が立てば肩が屋根の柱につかえる。けれど先生の後ろには、まだ暗い奥行きがあるように見えました。

知らせを受けた柴田巡査が来ました。先生に呼びかけ、棚越しに腕をつかもうとし、届かないので代金箱をどけました。箱の下には何もなく、棚板も普通の板だったそうです。背後へ回れば、そこには板壁しかない。板一枚を挟んで、先生はいるとも、いないとも言えなくなりました。

その日の夕方、献立表の当番欄には、亀井の下へ柴田と増えていました。

翌朝、巡査も先生の隣に立っておりました。制帽をかぶり、手帳を胸に当てたままです。

三日目には、大工の野田さんが屋根板を外そうとしました。四日目、闇市で乾物を売っていた片桐のおばさんが「馬鹿馬鹿しい」と芋を一つ持ち上げました。

その翌日ごとに、野田さんと片桐のおばさんが奥へ並びました。献立表にも、その順で名が加わりました。

四人並ぶと、売台の幅では収まりません。それでも肩は重ならず、全員が正面を向いていた。こちら側の寸法だけが、ひどく律儀に間違っていました。

役所が縄を張った次の朝、売台は消えていました。

跡には四角い土の色と、例の献立表だけが残りました。芋も代金箱も、四人もありません。献立表の木曜の欄には、脱脂粉乳、パン、馬鈴薯汁。給食当番は四名。ずいぶん年嵩の当番でした。

ここまでなら、焼跡時代の妙な話で片づきます。片づかなかったのは、その後です。

四人は行方不明として扱われましたが、闇市に関係した失踪は珍しくない、というのが役所の見立てでした。亀井先生まで闇商売の仲間にされたのですから、書類というものは勇敢です。本人のいないところなら何でも書けます。

学校では翌週から給食が再開されました。母は調理の手伝いに入っていましたが、木曜になると、琺瑯の椀が四つ余ると言いました。

児童と職員を数え、欠席者を引き、鍋へ同じ量を入れている。それでも配り終えると四杯分が残る。しかも余った椀は、配膳台の内側に一列で置かれていたそうです。誰がよそったのか尋ねると、手伝いの女たちは互いの顔を見て、「前の人でしょう」と答えました。前の人など、誰にもいないのですがね。

捨てるには惜しい時代でした。母たちはしばらく四杯を分けて持ち帰りました。しかし飲んだ家では、その晩の食事だけ人数を一人多く数えた。茶碗を五つ出した、子供を三人寝かせた、復員していない夫の箸を置いた。翌朝には間違いに気づくので、害といえば洗い物が増える程度でした。

それでも気味が悪く、四杯は炊事場の奥へ置かれるようになりました。湯気が消えるまで、誰も手をつけない。いつからか献立表には「調理補助 四」と印刷されました。名前はありません。数字なら怖くないという工夫でしょう。これも役所らしい知恵です。

私は卒業後、印刷屋を経て市の学用品係に勤めました。紙と数字ばかり相手にしたのは、あの献立表のせいかもしれません。数字は人より静かですが、人がいなくなった後にも残るという欠点があります。

昭和三十七年、第三小学校の炊事場を改築した際、配膳台の裏から古い板片が見つかりました。黒く焦げ、片面に赤黒い塗料が残っていました。例の献立表には釘穴があり、その穴にも同じ木のささくれが食い込んでいました。

野田さんの未亡人が、ご主人の仕事帳を持ってきてくれました。売台を調べた日の頁に、こうありました。

「背板、旧市場の飾り板らし。顔なし。背の部分のみ」

旧市場というのは、焼ける前の闇市ではありません。さらに前、明治の初めまで街道脇にあった定期市のことでした。

郷土資料を調べる老人は、その板を見て、昔の市には人の商いを真似るものが交じった、と話しました。客を脅かすでも、物を盗むでもない。ただ売台の内側へ人を増やし、いつまでも店を繁盛させる。絵にも名にも残りにくく、残るのは背中や棚の一部だけ。焼けば灰になるくせに、別の板へ塗り跡を移すことがある、と。

本気で言ったのか、私をからかったのかは分かりません。老人はその翌年に亡くなりましたし、質問というものは相手のいるうちにしておくべきです。

これで原因の一部は分かったように思えました。古い市の飾り板が焼跡へ流れ、無人の売台の背板になった。献立表に刺さった木片が学校へ入り、四人分だけを炊事場へ持ち込んだ。

では、売台そのものを誰が作り、毎朝野菜を置いたのか。なぜ四人で終わったのか。そこは何も分かりません。

もっと分からないのは、昭和六十二年に第三小学校が統合され、古い書類を整理した時のことです。最初の献立表と一緒に、明治初年の市を描いた粗末な写し絵が出てきました。

売台の奥には五人が並んでいます。亀井先生、柴田巡査、野田さん、片桐のおばさん。顔は点と線ですが、服装で分かりました。

もう一人は売台の端にいて、学生帽をかぶっています。

帽子の白い縫い取りは、第三小学校の三の字でした。私は帽子を脱ぐのが嫌いな子で、あの日もかぶっていました。ただし売台には触れていません。芋にも、代金箱にも、献立表にも。

絵の私は、四人と同じ向きには立っていませんでした。半身だけこちらへ出し、売台の内側を振り返っている。

今でも木曜日に芋の汁を作ると、椀を置く位置が一つ多い気がします。数え直せば家族の分しかありません。それで安心して座るのですが、どちら側へ座ったのかだけ、食べ終わるまで分からなくなることがあります。

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