冬服になる前

【年代不詳 日暮れどき】
昔、暮坂と呼ばれた通学路には、家を数えてはならない場所があった。
坂の上から下るときだけ、板塀の切れ目に並ぶ窓を数えてはいけない。数が昨日より少なくても、引き返して確かめてはいけない。翌朝、足りない家のことを尋ねると、大人は少し考え、そんな家は初めからなかったと言う。
それでも尋ね続けた子は、帰り道を変えられた。
炭鉱が閉じ、坂の半分が団地の敷地に削られたあとも、この話だけは残った。いまでは、夕暮れに家の数を数えるな、という短い言い伝えになっている。
私はその言い伝えができる前、暮坂を毎日通っていた。
【昭和三十四年十月十二日 午後四時四十分】
町立第三中学校から家まで、子どもの足で二十五分ほどだった。
校門を出ると、選炭場の黒い屋根が谷向こうに見えた。貨車を押す音が止むと、町全体が急に広くなったように感じた。暮坂の左手には古い炭住、右手には新しい町営住宅の工事現場があり、その間に東寄宿舎が立っていた。
東寄宿舎は二階建ての板張りで、窓が十六枚あった。学校帰りに数えたことが何度もある。物干しには紺の作業着が並び、共同炊事場の煙突から、夕方になると薄い煙が上がった。
住んでいたのは、春に北の方からまとまって来た若い坑員たちだった。町では「汽車組」と呼ばれていた。十五、六にしか見えない人もいたが、名札には十九歳と書かれていたらしい。
私は同級生の安子と、寄宿舎の裏を通る近道を使っていた。共同炊事場から味噌の焦げる匂いがし、二階の窓から流行歌が聞こえた。窓辺で靴下を繕っていた若い人が、私たちに手を振ることもあった。
その日、安子が言った。
「もうすぐ、ここも団地になるんよ」
白い杭が寄宿舎の角まで打たれていた。杭の頭には赤い布が結ばれ、風がないのに小さく震えていた。
【十月十三日 午後六時十分】
父は落盤で腰を痛め、坑内を離れていた。昼は資材置場の整理、月に十日ほどは夜間警備に回った。
その晩、母に言われて弁当を届けた。警備詰所は工事現場の入口にある一坪ほどの小屋で、裸電球の下に石油ストーブと黒電話があった。壁には巡回順路が貼られ、机の上には厚い巡回記録簿が開かれていた。
父が湯呑みを洗っている間、私は記録簿を読んだ。
午後五時、第一資材庫、異状なし。
午後五時二十分、セメント小屋、異状なし。
午後五時四十五分、東寄宿舎裏、異状なし。
どれも父の字だった。ただし、備考欄には見慣れない数字が並んでいた。
〈上三十八、下四十一〉
〈外出六、未帰二〉
〈炊事場 米七斗〉
私は「上と下は何」と聞いた。
父は濡れた湯呑みを伏せながら、子どもが見る帳面ではないと言った。怒った声ではなかった。記録簿を閉じ、その上に弁当箱を置いた。
帰りはもう暗く、寄宿舎の窓が上下とも明るかった。窓の数は、明かりで数えると十五枚しかなかった。
角の一枚は板で塞がれていたことを、昼になってから思い出した。
【十月十五日 午後四時二十五分】
姉が集団就職の列車で町を出た。
駅前には同じ灰色の制服を着た娘が二十人ほど集まり、胸に造花をつけていた。製糸工場の人が赤い旗を持ち、親たちは窓が見えなくなるまでホームに残った。
母は泣かなかった。姉の布団代と作業服代が最初の給金から引かれることを気にしていた。父は、向こうには寄宿舎も風呂もある、と何度も言った。
帰りに暮坂を通ると、東寄宿舎の前に大型バスが止まっていた。観光用ではなく、鉱業所が人を運ぶ灰色のバスだった。窓にはカーテンがなく、座席に丸めた布団が積まれていた。
二階から、以前手を振ってくれた若い人が降りてきた。名を野田さんといった。姉と同じ年だと聞いたことがある。
野田さんは私に、郵便局は駅の向こうだったかと尋ねた。封筒を一通持っていたが、切手は貼られていなかった。
私が坂下の雑貨屋でも切手を売っていると教えると、野田さんは封筒を作業着の内側へ戻した。
「明日でよか」
そう言って寄宿舎へ入った。
翌日、その雑貨屋で十五円切手を買う姿を見た者はいなかった。
【十月十七日 午後五時五十五分】
父の弁当箱を取りに詰所へ寄ると、警備員が交代するところだった。
机の記録簿には、新しい紙が一枚貼り足されていた。巡回順路が赤鉛筆で変えられていた。
第一資材庫、セメント小屋、北側板塀、東寄宿舎玄関、共同炊事場、渡り廊下、裏門。
最後に〈靴数確認〉とあった。
父は、坑員がよそへ逃げて事故にでも遭ったら鉱業所の責任になる、と言った。逃げるという言葉が妙に聞こえた。姉が工場の寄宿舎から帰っても、誰も逃げたとは言わないはずだった。
外では、作業員が新しい板塀を立てていた。塀は団地工事を囲うのでなく、通学路から東寄宿舎を隠す向きに延びていた。
隙間から、中庭に人が集められているのが見えた。全員が靴を脱ぎ、筵の上へ並べていた。警備員二人が靴を指さして数えていた。
野田さんもいた。こちらに気づいたが、手は振らなかった。
【十月十九日 午後四時五十分】
月曜日、担任が通学路変更の紙を配った。
暮坂の工事車両が増えるので、翌日から川沿いの道を使うように、と書かれていた。遠回りになり、冬時間の下校では暗くなる。教室から不満が出たが、先生は鉱業所からの頼みだからと言った。
私は安子に、東寄宿舎を壊すのだろうかと尋ねた。
安子は「東寄宿舎って何」と聞き返した。
冗談だと思い、二階の窓や灰色のバスのことを話した。安子は笑わず、机の中へ通学路変更の紙をしまった。
「右はずっと工事場やったよ」
放課後、二人で暮坂まで行った。長い板塀が道沿いに完成し、寄宿舎は二階の屋根だけ見えていた。共同炊事場の煙も上がっていた。
私は屋根を指した。
安子はそちらを見ずに、家で祖母が待っているからと言って帰った。
その夕方から、安子は川沿いの道を使った。
【十月二十日 午後六時四十分】
日が落ちてから父が学校へ迎えに来た。裁縫部の居残りで遅くなった私を、校門の外で待っていた。
父はいつもの作業服でなく、紺の上着を着ていた。暮坂へ向かう途中、一度だけ「今夜は何を見ても家で話すな」と言った。
坂にはトラックが六台並んでいた。荷台には空のままのものと、布団や柳行李を積んだものがあった。東寄宿舎の窓は明るく、人影が忙しく横切っていた。
板塀の内側から、鋸と金槌の音がした。取り壊しは人が出たあとにするものだと思っていたが、その晩は住人を出すのと同時に始まっていた。
詰所で父は巡回記録簿を風呂敷に包み、私の通学鞄へ入れた。
「これは家の押入れに置いとけ」
理由は言わなかった。私は鞄の口を締めた。記録簿は教科書より重く、肩紐が食い込んだ。
父は板塀の内側へ戻った。私は一人で坂を下りた。
すれ違ったトラックの荷台に、若い坑員たちが座っていた。皆、帽子を膝に置き、通学路の方を見ていた。野田さんがいたかは分からない。街灯の光は荷台の縁までしか届かなかった。
最後の一台には、靴だけが積まれていた。
家へ着くと、母は台所で姉からの葉書を読んでいた。工場はきれいで、寮の食事も多いと書かれていた。
私は記録簿を押入れの布団の下へ入れた。父が帰ったのは、夜が明るくなりかけた頃だった。
【十月二十一日 午前七時三十五分】
登校前に暮坂へ行った。
板塀は外され、東寄宿舎も共同炊事場もなくなっていた。空地には新しい砂利が敷かれ、ローラーの跡が平行についていた。二階建てがあった場所とは思えないほど平らだった。
電柱だけが一本、空地の中に残っていた。寄宿舎へ引き込まれていた電線は切られ、先端が朝の風に揺れていた。
坂下の雑貨屋で、店主に東寄宿舎の人たちはどこへ行ったのかと聞いた。
店主は、そんな寄宿舎は知らないと言った。
向かいの理髪店でも、停留所でバスを待つ女たちも、同じ返事をした。名前を知らなくても建物は見ていたはずなのに、皆、工事場は昔から空地だったと言った。
学校の教室からは、その空地がよく見えた。
安子は窓際に立ち、「団地、広うなるね」と言った。
【十月二十一日 午後四時三十分】
帰宅すると、押入れから記録簿を出した。
父の巡回記録は十月二十日の午後六時で終わっていた。その下には別の者の字で、作業の時刻が続いていた。
〈十九時十分 人員乗車開始〉
〈二十時二十五分 上階無人確認〉
〈二十一時 西側より解体〉
〈二十三時四十分 帳場及炊事場撤去〉
〈翌二時十分 整地完了〉
誰も忘れたのではなかった。最初からなかったことにする作業が、時刻どおりに進められていた。
後ろの方の頁には、寄宿舎に住む者の姓と出身県、申告年齢、実年齢らしい数字が書かれていた。実年齢の欄には十五、十六、十七が多かった。賃金から引かれた布団代、食費、紹介料も記されていた。
野田という姓は二人いた。一人は十九歳、もう一人は十六歳だった。
最後の頁を開くと、整地完了の下にもう一行あった。
〈三時十分 東寄宿舎二階、在寮七十九。異状なし〉
父の字だった。
私は前夜、記録簿を鞄へ入れられたとき、その頁を見ていた。午後六時の行より下は、すべて空白だった。記録簿は午後七時前から、家の押入れにあった。
ほかの作業記録がいつ書かれたのかは想像できる。父や警備員が、予定を先に書き込んでいたのかもしれない。だが最後の一行だけは、字の濃さも筆圧も、父が毎晩つけていた巡回記録と同じだった。
東寄宿舎の定員は七十九人だった。
【十月二十二日 午後八時十分】
父は記録簿を焼くつもりだった。
母が姉の葉書をしまいに席を立ったとき、父は火鉢のそばで小声で話した。
県から調べが来ることになり、鉱業所は年齢を偽って働かせていた者を別の鉱山へ移した。寄宿舎は図面に載っておらず、建材置場という届けになっていた。店の者には口止めの金が配られ、鉱業所の家に住む者には、余計なことを言えば新しい団地へ移れないと伝えられた。
先生の夫も、安子の父も鉱業所勤めだった。
父は、自分たちは人を数えていたのではなく、逃げていないか確かめていた、と言った。
移された先は坑道が水を噴いて長く休んでいた場所だった。父はそこまでしか知らなかった。
記録簿の最後の一行を見せると、父はしばらく指で字をなぞった。
「おれの字やな」
それだけ言った。
書いたとは言わなかった。書いていないとも言わなかった。
父は記録簿を火鉢へ入れず、もう一度風呂敷に包んだ。姉が帰省したとき使う布団の、一番下へ隠した。
翌週から暮坂は通学禁止になった。冬服に替わる頃には空地へ基礎が打たれ、春には四階建ての団地が二棟建った。
東寄宿舎のあった位置は、棟と棟の間の児童公園になった。
【平成六年六月十八日 午後五時二十分】
父の死後、家を片づけていて、押入れの奥から巡回記録簿が出てきた。
母は東寄宿舎の名を覚えていなかった。姉は一度も見たことがないと言った。安子にも手紙で尋ねたが、そんな建物があれば通学中に気づいたはずだ、と返事が来た。
旧鉱業所の書類は閉山時に処分され、町役場の図面にも寄宿舎はなかった。団地は建て替えのため無人になっており、児童公園には草が伸びていた。電柱も残っていなかった。
私は記録簿を町史資料室へ持っていった。担当者は頁をめくり、夜間警備の私的な帳面だろうと言った。寄宿舎の名簿も、正式な雇用記録でなければ史料として扱いにくいらしかった。
それでも捨てる気になれず、寄贈箱へ入れた。
後年、資料室は市町合併で閉鎖された。収蔵品の多くは新しい郷土館へ移ったが、巡回記録簿は展示も整理もされていない。問い合わせると、番号のない資料として一冊だけ保管されているとの返事が来た。
暮坂という名は地図から消え、団地も東寄宿舎も、そこに住んだ者たちの名も残っていない。
残っているのは、夜ごと彼らを数えた帳面だけだ。
その最後の頁では今も、取り壊された二階に七十九人が揃っている。