気付ヤマシタ

**旧食堂に入りしまま戻らぬ工員の件 「まだ鐘が鳴らぬ」と語る**
東湾新報 昭和十六年五月十九日 第三面
市内某重要工場の構内に、三年前まで使はれてをつた食堂がある。増産に伴ひ昼食を甲乙二組の時間差とした昭和十三年秋、同所は閉鎖され、今は木炭俵と欠け食器の箱の置場になつてをる。
先月来、この旧食堂に入つたまま持ち場に戻らぬ工員が数名出た。いづれも数日の後に同所で見つかり、いづれも同じことを云ふ。まだ鐘が鳴らぬ、と。
壁の八角掛時計は十一時四十二分を指して動かぬ。錘は吊つてあり、庶務課員が毎週巻いてをる由。入つた者の腕時計も懐中時計も、出て来たときには同じ時刻を指してゐた。ある旋盤工は三日ぶりに見つかつた折、顎に髭が伸び、作業衣の胸に飯粒が乾いて貼り付いてゐたが、箸を置いたばかりの顔をしてゐたと云ふ。窓の障子紙は破れてをるのに、差す光の色が昼のまま変らぬと述べる者もある。(以下十四行削除)
本紙三行広告欄に、昭和十二年十一月以来ほぼ月に一度、同一文面の掲載がある。読者の記憶にもあらう。
旧食堂ニテ正午ノ鐘ヲ聞キタル方 御一報下サイ 本社気付ヤマシタ
**続報 広告の払込人を訪ねて**
同紙 五月二十六日 第三面
広告料は毎回郵便振替による。払込人の氏名はヤマシタマサヱ。同工場の賄ひ方を長く務め、昭和十二年三月に肺を病んで亡くなつてをる。遺族は広告のことを知らず、仏壇の抽斗にも控が無い。広告部の綴りを繰ると、払込票の筆跡はいづれも同じであつた。
旧食堂から出て来た者の暮らしについて記す。米穀配給通帳の日付欄を指し、これは何の数字かと問ふ。見えぬのではない。見えてをつて、それが幾日目かが分からぬらしい。隣組の常会に顔を出さず、当番表の自分の名を他人のものと思ふ。防空演習の時刻に遅れ、ラジオの正午の時報が鳴つたあとも、まだ鳴らぬと云うて箱の前に座つてをる。
妻の一人は本社記者に、主人は毎晩昼飯のおかずの話をすると語つた。鰯の煮たのと、麦の多い飯。三年前の献立である。子の背丈が伸びたことには、まだ一度も触れぬと云ふ。
**旧食堂取壊し**
同紙 六月十日 第四面
某重要工場は構内整理のため旧食堂を取壊した。食器箱は焼却、掛時計は払下げとなり、引取つた庶務課員が家で錘を巻くと針は普通に進んだ。
工員のうち二名は依然出勤せず。家族が捜索願を出したが、受付の控が手元に見当らぬと云ふ。
**訂正**
本紙五月十九日付第三面および同二十六日付第三面の記事に就き、読者諸氏より照会を受けたるも、本社綴込みの当該頁はいづれも白紙にして、記事は存在せず。三行広告欄の該当行も広告台帳に記載を欠き、振替払込票も見当らず。担当記者の取材帳の該当頁も失はれてをる。読者の記憶違ひと思はる。
なほ本日付三行広告欄に左の一行あり。払込人の記載を欠き、広告料の受領も確かめ得ず。
旧食堂ニテ正午ノ鐘ヲ聞キタル方 マダ待ツテヰマス