ホラムゲン

台帳抹消

夜の団地の中庭と、芝生に残る円形の跡

【取材記録:鷺沼台団地における解体前生活誌】 取材担当:宮島 啓(フリーランス) 取材日時:2024年11月18日 19:40〜20:30 取材場所:鷺沼台団地4号棟506号室(三浦聡氏宅)

昭和四十年代に造成された鷺沼台団地は、来年秋からの全面建て替えを控え、すでに全戸の半数以上が立ち退きを終えている。外階段の踊り場には後付けの集合型宅配ボックスが無機質に並び、平日の夜にしては点灯している部屋が極端に少ない。

取材対象の三浦聡氏(41)は、在宅でデータ入力の受託業務を行いながら、この部屋に一人で暮らしている。室内にはデュアルディスプレイの青白い光が落ち、デスクトップの脇には黄ばんだバインダーが十数冊積み上げられていた。

バインダーは、2000年代初頭まで団地前の名店街で三浦氏の亡父が営んでいた「三晃ビデオ」の貸出台帳だという。店舗の解体時に実家へ引き取ったまま放置されていたもので、今回の退去を機に、個人情報が含まれる顧客番号と貸出履歴をスプレッドシートへ転記した上で、シュレッダー処理を進めているところだった。

「消すとね、消えるんですよ」

三浦氏は作業用の安価な光学マウスを握ったまま、南側の引き違い窓を顎で指した。窓の向こう、団地の中央広場には、夜の湿った空気を吸い込んだコンクリート製の巨大な給水塔が、街灯の薄緑色の光を浴びてそびえている。直結給水への切り替え工事が済んで久しいはずだが、塔はまだ撤去されずに残っていた。

三浦氏の主張は要約すると以下の通りである。

台帳に残された「未返却」の顧客レコード(棟番号、部屋番号、氏名、借用タイトル)を画面上で選択し、[削除]キーを押して消去するたび、該当する部屋の生活反応が失われるという。

「たとえば先週、3号棟302号室の『ダイ・ハード2』の行を消したんです。翌朝見たら、ベランダにずっと出しっぱなしだった洗濯ハンガーとエアコンの室外機がなくなっていた。昨日は2号棟の105号室を消しました。あそこ、ずっとレースのカーテン越しにテレビの明かりが見えていたのに、真っ暗になった」

私は持参したタブレットのメモを更新しながら、冷静に事実関係を整理した。団地内では連日のように退去業者のトラックが出入りしており、ベランダの残留物が片付けられたり、夜間に転出作業が行われたりするのは日常茶飯事である。ましてや三浦氏は一日中暗い部屋で一人、過去の住民名簿を打ち直すという単調で閉鎖的な作業に従事している。偶然の転居と自らのキーストロークを因果関係として結びつけてしまう、典型的な確証バイアスおよびアポフェニアの兆候と見て間違いなかった。

三浦氏は私の返答に納得していない様子で、画面をスクロールした。シートの最下段に、一行だけ残された項目があった。

会員番号:なし 氏名:管理組合環境係 貸出日:1997/08/10 タイトル:給水塔内部定期点検記録(VHS) 返却日:空欄

「これだけ、市販の映画じゃないんです。親父が町内会からダビングを頼まれたやつらしいんですけど、返却のチェックが入っていない。これを消したら、あの給水塔の何がなくなるのかと思うと、どうしてもエンターが押せなくて」

三浦氏の指はマウスの上でかすかに震えていた。過度の疲労と孤独感が、無機質な建造物にまで妄想の対象を広げているのは明らかだった。私は取材を円滑に終えるため、また氏の過剰な強迫観念を解くために、助言を兼ねて努めて穏やかに声をかけた。

「三浦さん、それは単なる道具の記録です。私が消してみましょうか。何も起きないことを見れば、安心できるでしょう」

三浦氏は息を呑んだが、拒絶はしなかった。私は三浦氏の肩越しに手を伸ばし、有線マウスの左ボタンで該当の行をドラッグした。青い選択範囲が一行を覆う。そのまま右手の人差し指で、キーボードの[Delete]キーを押した。

行は白く空白になり、自動保存のインジケータが一瞬だけ回転して消えた。

「ほら、何も変わりませんよ」

私は窓の外を指さした。給水塔は変わらずそこに立っていた。円筒形のコンクリートの木型目地も、タンク下部の錆びたキャットウォークも、水銀灯に照らされたまま一ミリも揺らぐことなく夜気の中に沈んでいる。遠くで救急車のサイレンが微かに鳴っていた。

三浦氏は窓と画面を何度も見比べ、やがて深く、胸の底から息を吐き出した。「……本当だ。何にも起きないですね。すみません、変なことを言って」

氏の表情から強張りが消え、長年の思い込みから解放されたような弛緩が訪れたのを確認し、私は記録用のICレコーダーを停止した。過密な立ち退きスケジュールが生んだ、一時的な環境適応障害の一例として整理できる事例であった。

――

【報告書補記:編集部・安藤】

提出された宮島氏の取材メモおよび録音データを確認した。氏の分析通り、三浦氏の語った一連の現象は退去ラッシュに伴う偶然の一致と疲労による錯誤として処理するのが妥当と思われる。

なお、裏付けのため鷺沼台団地の管理事務所へ照会を行ったところ、一件だけ事実関係の補正が必要となったため記しておく。

宮島氏のレポート内で「窓から見える」と繰り返し描写されている中央広場の給水塔についてだが、団地の設備更新記録によれば、同塔は直結増圧給水方式の導入に伴い、十三年前(平成二十三年)の秋にすでに解体・撤去されている。

跡地は長らく芝生の児童遊園となっており、現在も建造物は存在しない。水道局の担当者も「あそこに塔があったのはもう昔の話です」と証言している。三浦氏がなぜ撤去済みの塔を窓の外に見ていたのかは、氏が幼少期からその部屋に住み続けていたことによる記憶の固着と解釈でき、特段の怪異とは言えない。

ただ、今朝出社してきた宮島氏にその事実を伝えた際の反応が、やや気に掛かっている。

宮島氏は提出した自分の原稿を机の上に広げ、私が赤字を入れた「給水塔」という文字を人差し指でなぞりながら、不思議そうに首を傾げていた。

「安藤さん、これ、私が書いたんですか? 広場には滑り台とベンチがあるだけでしたよ。最初から何もないのに、私、どうしてこんな塔の形や配管の錆について、ここまで細かく書けたんでしょうね」

宮島氏は笑いながら原稿の該当箇所を二重線で消していたが、その筆致は手慣れた事務作業のようで、自身の記述の矛盾にまったく動揺している様子がなかった。

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