道は一本きり

柏木内科医院 カルテ(外来兼入院)
患者番号 一四七二 氏名 三宅辰次 年齢 二十四 男 職業 市役所 区劃整理課 傭員 現住所 東区桐生町五十三 下宿高砂館 家族歴 兄、肺患にて郊外の療養所に入所中。父母存命。 初診 大正十四年十一月十九日 二十三時四十分
主訴 手足の冷感、同一語句の反復、軽度の意識混濁
現症 体温三十六度二分。脈八十四、緊張良。瞳孔左右同大。肺野に異常音を聴かず。結核を疑うべき所見なし。外傷なし。左手第二第三指に墨、爪の間まで及ぶ。
来院経路 東成商業夜学校小使、藤田某が付添。二十三時十分、消灯のため自習室を見回ったところ患者一人在室。机四十脚のうち窓側の一脚のみ椅子が引かれていた。電灯は全て点いていたが、患者は「暗い」と繰り返した由。机上に燐寸箱一箇、蝋燭の燃え残り。小使が火の始末を叱ると、患者は蝋燭に触れていないと述べた。
問診(書き取り。患者の言のまま) 「町名改正の調査票を数えていた。区劃整理の。賛否を書いて出させるもので、私はそれを町ごとに束ねる係だ」 「柊野町の束が減らない」 「柊野町は改正案にも現行の町名表にもない。だが回答は来る。十二通あって、数え直すと十七通ある。筆蹟は皆ちがう。年寄りの手も子供の手もある」 「みな『改正に及ばず』と書く。理由の欄はどれも空だ」 「一通に、百貨店の裏手と住所が書いてある。あの辺は三ツ屋町だ。書いた者は柊野町だと言う」
二十四時十分 加療中の発語 「実測図を見た。柊野町のところで道が繋がらない。北の岩本町と南の三ツ屋町のあいだが、一町分あかない。図では隣り合っている。歩けば十分かかる」
記載者註 当院所蔵の市街全図を確認。岩本町と三ツ屋町は隣接。柊野町の記載なし。市電停留場名にも該当なし。
処方 氷枕、湯たんぽ、ブロム剤。安静。
経過 二十四時五十分 発汗。脈九十六。「電話をかけた」と繰り返す。交換局に柊野町の名で呼び出しを頼んだ由。交換手は「柊野町、はい」と復唱し、暫くして「お話し中です」と答えたという。三度かけて三度お話し中。
一時二十分 「弁士の声が聞こえる」と述べる。近隣の活動写真館は十時に終業。窓を確かめたが閉じている。
一時五十分 入眠。
三時十分 覚醒。氷枕を替える。天井を指し「上に机が並んでいる」と述べる。当院二階は病室、机なし。
四時二十分 再入眠。体温三十六度五分。
五時四十分 覚醒。意識清明。前夜の言動を全く記憶せず。左手の墨にも気づかず。「調査票は明日までに数え終えます」と述べる。柊野町の名を出すと「聞いたことがない」と答えた。
六時十分 歩行障害なし。徒歩にて帰宅。付添不要。器質的所見を認めず。過労による一時的意識障害と思われる。一週間後の再来を指示。
追記(六時四十分) 看護婦桑島に本日の記載を音読させ、清書を命じた。柊野町の箇所で読みが止まったので促したところ、桑島は「そこは私の生まれた町です」と言った。桑島の履歴書には出生地岩本町とある。確かめると、岩本町でよいと答え、少し経ってから、生まれた家は岩本町の外れで、そこだけは別の名で呼んでいた、と言い直した。誰が呼んでいたのかは覚えていないという。
追記(七時) 三宅の再来日を書き入れるため所番地を写した。下宿の宛先を書くつもりで、私はまず一行、別の町名を書いていた。手が先に動いた。消しても罫の下に残る。
追記(七時二十分) 桑島に清書を止めさせ、以下は私が書く。桑島は帰宅させた。玄関で、道を一つ間違えたと言って戻ってきた。当院の前の道は一本きりである。