市外局番以前

【編纂付記 令和六年十一月】
以下は、旧鶴来町史資料室が保管する「松乃家旅館関係資料」から、電話帳と写真に関する記述を抜き出したものである。
松乃家は昭和三十四年から四十二年まで、鹿生炭鉱前駅の東側で営業していた。木造二階建て、客室十二。炭鉱の出張員、集団就職で来た若者、鉱員住宅の空きを待つ家族などが泊まった。
建物は昭和五十八年に取り壊され、跡地は長く町有地となっている。
【資料一 備品台帳添付票】
昭和三十四年版 鹿生・鶴来地区電話番号簿 一冊。
表紙に油染み。背の下部に「松乃家」と墨書。電話番号の傍線、余白への氏名・日付の書き込み多数。
当時、松乃家の帳場には黒電話が一台あった。近隣の下宿や鉱員長屋には電話がなく、急用は旅館で受け、従業員が呼びに走ったという。
書き込みの例。
「山ノ内商店 二一七番 森田君の姉」
「飯場詰所 一八五番 夜勤には呼ばない」
「橋場郵便局 呼出 高瀬正夫」
「若葉団地管理所 四二一一 昭三八・四より」
最後の番号は印刷されておらず、巻末の白紙に鉛筆で記されている。若葉団地の入居開始は昭和三十八年五月で、四二一一番の開通も同月だった。
筆跡は旅館の女将、長尾志津のものとみられる。
【資料二 長尾志津から長女・和子への書簡 昭和三十四年六月十二日消印】
和ちゃん、送ってくれた写真機は若い衆が喜んでいます。
今度来た十七人は、みんな玄関で撮りました。中学を出たばかりの子が多く、背広も靴も借り物です。笑えと言うと、余計に固くなりました。
出来た写真は少しおかしいです。裏のボタ山のところに、白い箱のような建物が三つ写っています。窓がずらりと並び、洗濯物まで見えます。撮った日は霧でしたし、そんな建物はありません。
写真屋は、前に撮ったものが重なったのだろうと言いました。けれど、あの写真機で団地など撮ったことはないでしょう。
若い衆には渡しました。都会みたいだと喜んで、ボタ山よりこちらがいいと言います。
【資料三 小柴写真館作業控 昭和三十四年六月】
六月九日 松乃家持込 六六判 一巻。
十二駒中、四駒かぶり。原因、巻き上げ不良と思われる。
第六駒、玄関前集合。背景に集合住宅様の像。別フィルム混入の可能性なし。当店では同型建築を撮影していない。
第八駒、二階廊下。肉眼では廊下突当りに窓ありとのこと。写真では壁。女将より焼増し不要の申出。
【資料四 松乃家従業員・浜井房江の聞き取り 昭和五十二年】
二階の写真は私が撮りました。廊下の雑巾掛けが済んだので、きれいなうちに一枚という話でした。
突当りの窓は、駅の時計が見える窓です。写真では襖みたいな白い壁になっていました。柱の節までちゃんと写っているから、指が入ったのではありません。
その後も、ときどき妙なものが写りました。客が入っている部屋を撮ると、畳だけになっている。新しい座布団を並べて撮ると、日に焼けた古い座布団になっている。ただし、いつもではありません。
志津さんは、写真の中だけ片付くのが早い、と言っていました。
怖がってはいませんでした。忙しい人でしたから、写真にまで構っていられなかったのでしょう。
【資料五 高瀬正夫の日記帳 昭和三十五年二月二日】
休みに松乃家で写真を見せてもらう。
去年、玄関で一緒に撮った十七人のうち、もう五人が山を下りた。東京の工場へ二人、北の鉱山へ一人、あとの二人は知らない。
写真の白い建物を建設課の人が見て、今度できる鉱員団地に似ていると言った。図面はまだ新聞にも出していないそうだ。ただし建つ場所が違う。計画地は川向こうで、写真では松乃家の裏にある。
女将さんは電話帳に皆の行き先を書いている。宿へ電話が来るからだという。
自分の名前の横はまだ空いていた。
【資料六 夕刊『鹿生日日』昭和三十五年九月十八日】
〈第三坑出水、全坑操業を停止〉
十七日午後三時四十分ごろ、鹿生炭鉱第三坑の旧坑道から大量の水が流入した。早番作業員は退坑後で、坑内にいた保安員九名も午後五時までに地上へ戻った。負傷者はなかった。
会社は排水設備の復旧に長期間を要するとして、全坑の操業を停止した。駅前には家族、報道関係者、会社職員が集まり、周辺道路は夜まで混雑した。
会社からの連絡電話があるとの噂で、松乃家旅館にも多数の住民が詰めかけた。帳場の電話は回線が混み合い、ほとんど通じなかった。
【資料七 小柴写真館作業控 昭和三十五年九月】
九月十七日夜 新聞社依頼分、出水騒ぎ。三五ミリ三巻。
駅前、会社正門、松乃家帳場ほか。
松乃家内部の五駒は使用不可。撮影時、帳場および広間には数十人いたとのことだが、人影なし。卓、湯呑、煙草盆なども写らず。室内は空。床面に埃様のむらあり。
帳場写真には電話機と番号簿のみ写る。番号簿の表紙に「昭和三十八年版」と読めるため、後日の写真が混入した疑い。
ネガの駒順は駅前群衆、松乃家玄関、空の帳場、会社正門、排水管。切断および接合痕なし。
新聞社には該当駒を渡さず。
【資料八 長尾和子の覚書 作成年不明】
水の出た晩、私は母を手伝いに行った。
広間には四十人くらいいた。濡れた作業着の人、子を背負った人、会社の発表を書き取る人で、座る場所もなかった。母は受話器を肩に挟み、電話帳をめくっていた。誰かにつながるたび、別の誰かが玄関へ走った。
新聞社の人がフラッシュを焚いた。皆、一瞬だけ黙った。白い光のあとで、また名前を呼ぶ声が重なった。
数日後、小柴さんが帳場の写真を持ってきた。そこには母しか写っていなかった、という記憶が長く私にはあった。
ところが資料室で見た焼付には、母も写っていない。電話だけが帳場に載り、受話器はきちんと置かれている。横の電話帳は私の知るものより厚く、表紙が新しかった。
母に見せたかどうかは覚えていない。
あの晩の母は、受話器を置く暇がなかった。
【資料九 鹿生炭鉱労務課通知 昭和三十五年十月三十一日】
排水および採炭再開の見込み立たず。鉱員六百二十名のうち、希望者を系列事業所へ配置転換する。社宅居住者は十二月末までに退去。
若年鉱員については自動車工場、製鋼所等への集団移籍を斡旋する。
松乃家旅館は同年十一月から、移転者と家族の一時宿泊所に指定された。
【資料十 浜井房江の聞き取り・続き】
あれから町は静かになりました。
朝の交替の足音がなくなり、駅前のうどん屋も昼で閉めるようになりました。松乃家には、出ていく人ばかり泊まりました。来たときと同じ革鞄を提げていても、帰りは鞄が膨らんでいました。
志津さんは電話帳を捨てませんでした。転勤先の寮や親戚の店の番号を、余白にずっと書いていた。写真を送るために住所も聞きました。
写真を撮ると、客室が空に写ることが増えました。布団を敷いてあるはずなのに畳だけで、火鉢も灰だけになっている。玄関で見送った家族は写らず、建具を外した暗い部屋が奥まで見えたこともあります。
誰も、もう騒ぎませんでした。どうせ皆いなくなるから、写真のほうが少し早いだけだと志津さんは言いました。
それでも現像は続けました。出ていった人へ送るためです。写っていない写真も、欲しいと言われれば送りました。
【資料十一 昭和三十八年版電話番号簿との照合票】
旧松乃家蔵の昭和三十四年版に手書きされた番号のうち、後年に開通したものは二十七件。
若葉団地管理所 四二一一
東浜自動車第二寮 五八七〇
崎岡製鋼所若身寮 六一一九
ほか二十四件。
いずれも筆記時期は特定不能。旅館営業中、必要に応じ追記されたものと考えるのが自然である。
ただし、昭和三十五年九月十七日撮影とされる帳場写真を拡大すると、電話帳巻末の白紙部分に「若葉団地管理所 四二一一 昭三八・四より」の筆記が確認できる。
写真の複写年代は不明。原板は昭和四十年代に小柴写真館の火災で失われた。
【資料十二 長尾志津から高瀬正夫への葉書 昭和三十八年五月七日消印】
若葉団地へ移ったと聞きました。新しいお勤めも決まり安心しました。
三十四年に皆で撮った写真を一枚、帳場の引出しに残してあります。後ろの建物が、今度の団地によく似ています。あなたはあのころ、ここへ住めたら山を下りなくて済むと言いましたね。
写真では松乃家のすぐ裏でしたから、歩いて帰って来られそうでした。
電話番号は前から帳面に書いてあった気がします。私が後で書いたのでしょう。
【資料十三 町有地定点撮影記録】
昭和五十八年八月、松乃家解体。跡地を町が取得。
平成十四年、旧駅前区画整理事業のため定点撮影を開始。毎年四月と十月、道路向かいから同一方向を撮影。
平成二十一年十月の写真では、翌年設置された防火水槽の標識が写っているように見える。画質不良のため判定不能。
平成二十八年四月の写真では、未着工の歩道が完成した状態で写る。撮影日入力の誤りとして整理。
令和四年十月の写真では、跡地に高齢者住宅の基礎が見える。同計画は資材費高騰のため翌月に中止された。現地には現在も基礎はない。
定点撮影用の機器は二度交換されており、フィルム式、デジタル式、携帯端末のいずれにも同様の誤認例がある。
【資料室業務日誌 令和六年十月三日】
松乃家跡地を資料保存用に撮影。
現地は草地。北側に若葉団地三棟。うち一棟は空き家となり、窓を合板で塞いでいる。
撮影画面では草が短く、地面に白線が引かれていた。確認のため画面から目を上げると、草は膝近くまであり、白線もない。再撮影では通常どおり草地となった。
最初の画像には、土地の隅に小さな箱が写っている。拡大すると古紙回収箱に似ており、側面に「地区別電話帳はこちらへ」とある。
町では電話帳回収箱を設置したことがない。画像処理上の誤りと思われるため、記録写真としては二枚目を採用した。
一枚目は削除せず、松乃家資料の末尾に収めた。
若葉団地の窓は、その写真では三棟とも塞がれている。