ホラムゲン

保護者欄の空白

夕暮れの理科室の机に積まれた謄写版の名簿束と鉄筆

一 滝本省三の手記より(大松旅館・PTA副会長)

十一月の十日であった。日が落ちると、温泉街の底を流れる川から白く重い湯煙が這い上がってきて、往来の電柱に取り付けられた裸電球の傘を濡らした。

私の宿は川沿いにあって、川向こうの斜面には戦後すぐに建てられた引揚者の寮が、粗末な下見板張りの屋根を並べている。満洲や樺太から着の身着のままで戻ってきた連中が、細々と薪を割り、裏山で拾った銀杏を茹でて露店に出していた。かつて歓楽を誇ったこの湯町も、進駐軍のジープが通るたびに泥水を跳ね上げ、傷痍軍人が駅前でアコーディオンを鳴らす、雑駁な土地になっていた。

その年の春、新制小学校に「父母と先生の会」――いわゆるPTAが正式に結成された。進駐軍の民事部からの強い指導があったと聞いている。私は地元旅館の寄り合いの席で押し出されるように副会長になり、その日の夕方、役場と合同で行う冬季の防犯巡回と、引揚児童への防寒着配分の相談のため、学校の旧理科室に集まっていた。

集まったのは四人である。校長代理の神田訓導、庶務を引き受けていた引揚者住宅の佐伯文子さん、会計の乾物屋の親父、そして私だ。

理科室には石炭ストーブが据えられていたが、煙突の継ぎ目から時折煙が漏れ、硫黄の混じった湯の匂いと硝煙のような煤の匂いが部屋の隅に澱んでいた。机の上には、佐伯さんが鉄筆で蝋紙に刻み、学校の謄写版で刷ったばかりの『昭和二十七年度 学父母名簿』が、二百部ほど積まれていた。まだ青黒いインクの油臭さが強く残っていた。

「滝本さん、表紙の綴じ紐、これくらいで足りますかね」

佐伯さんが古着の端切れを裂いて作った麻紐の束を持ち上げた。昭和二十五年から二十六年にかけての混乱で、紙も紐もまだ贅沢品だった。名簿は、更紙に裏表刷りされた粗末な小冊子である。

「ああ、十分でしょう。しかし、引揚寮のほうはまだ出入りが激しい。先月刷ったばかりなのに、もう三軒ほど引き払って、新しく佐世保から二家族入ったと聞きましたよ」

「ええ。だから備考欄に鉛筆で書き入れられるよう、余白を広めに取ってあるんです」

佐伯さんはそう言って、右手の指先についた紫がかったインクを前掛けで拭った。彼女の夫は北支からまだ復員しておらず、小学生の男の子を抱えて、仕立物の内職で暮らしていた。表情にはいつも、あの引揚者特有の、深く飢えたような、それでいて他人に対して身構えるような硬さがあった。

神田訓導が茶を淹れ直すためにヤカンを持って立ち上がり、乾物屋が煙管の灰を吸殻入れに叩き落とした。

その時の時刻を、私ははっきりと覚えている。理科室の壁に掛けられた古時計が、五時四十分を指していた。外はすっかり暮れ、山の影が落ち、谷の底では温泉の配管から抜ける蒸気の音が、シューという湿った呼吸のように響いていた。

神田訓導が言った。 「では、名簿の三頁、四番組のところを読み上げますから、転出者の控えと照合をお願いします」

私は手元の帳面を開いた。佐伯さんが一番上の束を手に取り、乾物屋が鼻眼鏡を直した。

その直後のことである。

気がつくと、私は名簿の裏表紙を麻紐で結び終えていた。

手の中で、結び目の余りを鋏で切り落とす感触があった。冷えた鉄の鋏が、親指と人差し指の付け根に食い込んでいた。

顔を上げると、神田訓導はヤカンをストーブの上に戻した姿勢のまま、両手を膝に置いていた。乾物屋は煙管を銜えたまま、口を半開きにして窓の外を見ていた。佐伯さんは、手元に重ねられた名簿の一番上の頁を、指先で押さえていた。

時計の針は、五時四十七分を指していた。

七分が経っていた。

誰も何も言わなかった。誰も居眠りをしていたわけではない。私たちは全員、作業を終えていた。机の上に乱雑に積まれていた二百部の冊子は、四十部ずつの束にまとめられ、十字に紐が掛けられて整然と並んでいた。私自身の指先には、麻紐を強く締め上げたとき特有の、擦れたような白い筋が二本残っていた。

「……滝本さん」

神田訓導が、掠れた声を出した。

「私、いま、四番組を読み上げましたか」

「いや」と私は言おうとした。だが、喉が妙に乾いていて、声がうまく出なかった。「……読み上げた、と思います。四番組の、古賀さんの次を」

「古賀さんの次」と佐伯さんが呟いた。その声には震えがなかった。むしろ、ひどく落ち着いていた。「古賀さんの次は、どなたでしたっけ」

私は手元の帳面を見た。四番組の児童名、保護者名。そこには私の見慣れた筆跡で、万年筆のインクが走っていた。

けれど、帳面のその行は、最初から一行まるまる空行になっていた。ただ、通し番号の「十四」と「十五」の間が不自然に一行分だけ空けられ、そこに「同上」とも何とも書かれていなかった。

二 佐伯文子の証言より(昭和四十二年、町史編纂室の聞き取りにて)

ええ、覚えております。あの年のことは忘れようにも忘れられません。名簿を作った日のこともです。

引揚者というのはね、名簿というものが何より怖いんですよ。満洲で引き揚げる時も、収容所に入る時も、貨車に乗る時も、全部名簿でした。名簿に名前が載っていれば配給がもらえる。名前が消えれば、それきり山の中に捨て置かれても誰も文句は言えない。だから私は、学校のPTAで名簿係を仰せつかった時、どんな小さな子どもの名も、引き揚げてきたばかりの親の名も、漏らさず謄写版に刻もうと必死でした。

あの日の五時四十分から、四十七分までのことですね。

世間では、集団催眠だとか、石炭ストーブの一酸化炭素で頭がぼんやりしたんだろうとか、いろいろ言われました。けれど、そうじゃありません。一酸化炭素なら、あんなに手先が正確に動くはずがありません。二百部の名簿が、狂いもなく四十七分には綴じ終わっていたんですから。

抜けていたのは、時間だけじゃないんです。

あの七分間、私たちは何かをとても親身に、熱心に話し合っていたはずなんです。なぜなら、四十七分に我に返った時、私の目からは涙がこぼれていました。悲しい涙ではありません。ああ、これでいいんだ、これでみんな助かるんだというような、肩の荷が下りた時の安堵の涙です。

滝本さんも、神田先生も、乾物屋のおじいさんも、みんな笑っていました。顔を見合わせて、小さく頷き合っていたんです。「そうですね」「そうしましょう」と言いながら。何に対して頷いていたのか、誰も思い出せないのに。

名簿をめくってみました。三頁目の、四番組のところです。

謄写版の蝋紙を切ったのは私ですから、自分の原紙に何を書いたかは全部覚えています。私はそこに、確かに書いたんです。鉄筆を細かく動かして、四番組の十四番目の児童の氏名と、その保護者の名前を。

でも、刷り上がった紙を見ると、十四番の欄は綺麗に真っ白でした。削った跡も、墨で塗りつぶした跡もない。ただの余白なんです。原紙のほうを確かめに行ったら、原紙の蝋も、そこだけ削られていなかった。つるりとした飴色の蝋のまま、行が空いていました。

じゃあ、私は何を鉄筆で刻んでいたんでしょう。

私の右手の親指の横には、鉄筆を強く握りしめたせいでできた、赤黒い蛸がありました。その夜、家に帰ってからも、手首が痛くて雑巾が絞れなかったほどです。私は間違いなく、その七分間、何か長い名前と、長い住所と、その人の出どころを、力いっぱい蝋紙に刻み続けていたんです。

不思議なのは、怖くなかったことです。

普通なら、記憶が七分も飛んで、手元にわけのわからない空白があったら、気味悪くて叫び出したくなるでしょう。でも、その時の理科室の中は、お風呂に入ったあとのように温かくて、穏やかでした。

神田先生が「お疲れさまでした、これで今年の冬は越せますね」とおっしゃって、私たちも「ええ、本当によかった」と答えました。何が良かったのか、誰も説明できないのに、四人とも心から納得していたんです。

三 神田誠の記録より(元訓導・日誌の余白より抜粋)

昭和二十七年十一月十一日。

昨日の役員会の件、教員室にて教頭に報告。名簿の欠落について尋ねられるも、印刷上の誤記として処理。再版の予算なし。

四番組の学籍簿を改めて点検する。  本校の全校児童数は四百十二名。しかし、昨晩点検した名簿の通し番号を数えると、四百十一名分しかない。四番組十四番が欠番となっている。

だが、教室を見渡しても、空いている机はない。  二年生の四番組へ行き、担任の木村訓導に尋ねた。 「木村君、君のクラスに、最近転入してきて、まだ名前の決まっていないような子はいないか」  木村訓導は怪訝な顔をして、名簿と教室の子供たちを見比べた。 「何を言ってるんですか、神田先生。三十五人、全員揃っていますよ。ほら、欠席もいません」

教壇から見ると、机は五列、七列で三十五席。ぴったり埋まっている。子供たちはみな、継ぎ当てだらけの筒袖を着て、鼻をすすりながら算術の教科書を開いている。

私も彼らの顔を一人一人知っている。誰一人、見知らぬ子供は混ざっていない。

では、欠けている一名は何なのか。

昨夜の七分間を、私は今朝から何度も頭の中で手繰り寄せようとしている。  ヤカンを手に取った。時計を見た。五時四十分。外は暗かった。そこまでは鮮明だ。  そこから、ふっと意識が滑った。気絶したのではない。眠ったのでもない。例えるなら、本を読んでいる最中に、ページとページの間に挟まれていた薄い紙を取り除いたような感触だ。取り除いたこと自体には気づいているのに、その薄紙に何が印刷されていたかだけが、私の意識の網目をすり抜けていってしまった。

ただ、ひとつの言葉だけが、頭の奥に残っている。

誰が言ったのかはわからない。滝本さんかもしれないし、佐伯さんかもしれない。あるいは私自身が口にしたのかもしれない。

「――引き取ります」

その言葉だけが、川底の白い小石のように、記憶の澱みの中に沈んでいる。

誰を、誰が引き取ったのか。

温泉街には、満洲から引き揚げてくる途中で身寄りをなくした子供や、空襲で親を亡くして遠い親戚を頼ってきた子供がたくさんいる。そういう子供たちの戸籍を整え、就学させるのは、この二、年、町役場と学校が毎日のように追われていた仕事だった。戸籍のない者、名前の読み方が曖昧な者、生年月日が分からない者。私たちは書類の空白を、嘘と推測と、町内の顔役の判子で埋めてきたのだ。

昨夜の七分間、私たちは何かを埋めたのではない。

逆だ。私たちは何かを、あの名簿から「外した」のだ。

外すことによって、帳尻を合わせた。町の中に居場所のない何か、名乗るべき家も、引揚証明書も持たない何かを、私たちはあの薄暗い理科室で、全員一致で「初めから無かったこと」にしたのではないか。

いや、無かったことにしたというより――。

四 滝本省三の回想(昭和四十五年、旅館の帳場にて)

あの名簿は、いまも大松旅館の物置の奥に一冊だけ残してあるよ。茶色く変色して、ホチキスの針のところが赤く錆びてね。

あれから二十年近く経って、町の様子もすっかり変わった。引揚者の寮は取り壊されて鉄筋の公団住宅になり、駅前からは傷痍軍人も消えて、観光バスが何台も乗り付けるようになった。川の湯煙だけは昔のままだがね。

佐伯さんは十年前に亡くなった。息子さんは東京の大学を出て、立派な会社員になったそうだ。神田先生は校長まで勤め上げて、今は隣町で隠居していらっしゃる。

たまに思い出すんだよ、あの五時四十分からの七分間のことを。

不思議なもんでね、年を取るにつれて、あの時の感覚が、ちっとも不気味じゃなくなってきた。むしろ、親しいもののように思える。

あの七分間、理科室の中にいたのは、私たち四人だけじゃなかった。

もう一人、いたんだ。

姿を見たわけじゃない。声を聞いた覚えもない。けれど、あの時、私たちは四人で輪を作って、真ん中にある「それ」の面倒を見ていた。名簿を作るとはそういうことだ。紙の上に名前を書いて、親の名前を書いて、住所を割り振るということは、その人間をこの世の網の目に縫い付けるということだ。

でも、どうしても縫い付けられないものがある。

戦争で焼け出されて、名前も忘れ、親の顔も忘れ、自分がどこから来たのかも分からなくなった情報のようなものが、あの頃の日本には、湯煙のようにそこら中に漂っていたんだよ。行き場のない名無しが、夜になると山から下りてきて、人の集まるところへ紛れ込もうとする。

私たちは、それを名簿に載せようとした。佐伯さんが鉄筆を執り、私が帳面を開いて、神田先生が読み上げようとした。

けれど、書けなかったんだ。書けば、それは確定してしまう。確定してしまえば、配給の米が足りなくなる。誰かが責任を持たなきゃならなくなる。学校に通わせ、服を着せ、いずれ大人にして世に放たなきゃならなくなる。当時の私たちには、そんな余裕はこれっぽっちも残っていなかった。

だから、私たちは相談したんだと思う。

あの空白の七分間で、私たちはひどく穏やかに、理路整然と、その「名無し」と言葉を交わしたんだ。

「すまないが、お前の席はここにはない」と。 「お前を名簿に書くことはできない」と。

そしたら、あちらも納得したんだよ。ええ、そうです、私は最初からそんな気がするんです。相手は怒りもせず、恨みもせず、ただ「分かりました」と静かに身を引いた。その代わり、自分と話したという記憶ごと、私たちの頭から綺麗に持っていってくれたんだ。余計な後味の悪さを、私たちに残さないために。

だから、気がついた時、私たちは笑っていたんだ。  名簿は綺麗に仕上がっていて、四番組十四番はただの白い余白になっていて、私たちは何ひとつ悪いことをしていない顔で、紐を結んでいた。

今でも、町を歩いていて、旅館の予約帳や、回覧板の順番表や、役所から回ってくる書類なんかに、ふっと一段だけ空白が空いているのを見かけることがある。

誤植かもしれない。ただの書き落としかもしれない。けれど私は、その白い隙間を見るたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚える。

ああ、ここにも昔から、誰かがいたんだな、と。

誰もその名前を知らないし、誰も出会った記憶を持たない。けれど私たちは、ずっと昔から、そうやって隙間を空けてやることだけで、何食わぬ顔で暮らしを続けてきたような気がしてならないのだ。

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