ホラムゲン

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戦時下のダム管理棟に残る連絡表と下駄

「昭和十八年の秋です。私は十六で、青峡ダムの管理棟に給仕として入っていました。父が出征して、国民学校を出たばかりの私まで家で遊ばせておけなかったんです。あそこは発電所ではなく、下流の軍需工場へ工業用水を送るためのダムでした」

「ええ」

「管理棟は堤の西端にありましてね。上が事務室と無線室、下が機械室、その下に監査廊がありました。職員の家族も何組か、二階の狭い宿直室を住まいにしていた。町はずれで、空襲警報や配給日の知らせはラジオと町内会頼みでした。

その日の朝六時、私が石炭箱を運び込むと、黒田主任がもうラジオの前にいました。四十五くらいの人で、いつも袖口に鉛筆を差していた。奥さんは町内会の配給係、娘の節子さんは国民学校の五年生でした。

放送が終わると、黒田さんは受信機の目盛りを布で隠しました。敵性放送を聞いたと疑われぬよう、選局位置を動かさない決まりだったんです。朝飯の代わりに乾いた芋をかじりながら、今月も米が二合足りない、と笑っていました。そういう人でした。数字にうるさく、足りないものほど笑って済ませる」

「それで、その紙は」

「八時ちょうどに節子さんが持ってきました。学校の非常連絡順路表です。今なら連絡網と言うんでしょうが、電話のある家なんて少ない。警報や休校の知らせを、児童が家から家へ走って伝える。その順番を謄写版で刷った紙です。

上に『青峡国民学校 非常連絡順路表』、下に小さく『見たら次へ廻すこと』とあった。節子さんは父親の受領印が要ると言いました。黒田さんは水位日誌から顔も上げず、紙を二つ折りにさせて、裏へ判を押した。

私が紙を開いたのは九時過ぎです。節子さんが置き忘れたので、届けようと思っただけでした。

第一、黒田節子。第二、松永正夫。第三、曽根フミ。そこまでは管理棟に住む職員の子でした。四番目から先が妙だった。

第四、鹿島一郎。東下宿直室。  第五、鹿島千代。同室。  第六、大庭澄江。東下第二室。

東下なんて呼び方は、当時の私たちは使いません。管理棟の東側、堤の内部に古い休憩室が三つあったそうですが、私が入った時には壁で塞がれていました。湿気がひどく、資材置場にもならないと聞かされていた場所です」

「名前には覚えが?」

「ありません。ただ、十時半に松永技手へ見せると、あの人は四番目の名を指で押さえました。紙に穴があくほど強く。

『これは学校へ返せ』

そう言って、事務室にいた七人を見回しました。誰も理由を尋ねないんです。所長まで窓の外を向いた。私はそこで初めて、知らないのは自分だけだと思いました。

十一時、町内会長が配給切符の束を持ってきました。管理棟居住者、七世帯分。黒田さんは人数を読み上げ、私が赤鉛筆で照合しました。全部合っていた。

ただ、会長が帰り際、廊下の突き当たりへ頭を下げたんです。そこには濡れた作業帽が掛けてありました。誰のものかと聞くと、松永技手が私の肩をつかみました。

『見るな。数にも入れるな』

帽子なら、もう見ていました。それでも私は目を伏せました。あの頃は、余計なものを見ないのが身のためでしたから。工場の生産量も、ダムの故障も、配給の不足も、口にすれば流言になる。見ても見なかったと言う癖が、町じゅうについていたんです」

「紙は返したんですか」

「正午に節子さんが取りに来ました。ところが順路表を読み直して、首をかしげるんです。

『鹿島君は学校へ来てないよ』

では、なぜ名前があると聞くと、昨日、担任が黒板を見ながら書き足したのだと言いました。誰かが職員室へ届けた古い名簿を写したらしい。節子さんは四番から十二番までを鉛筆で囲みました。

十二人ではありません。四番から十二番だから九人です。そこは間違えていません。

その九人は、姓が三つに分かれていました。鹿島、大庭、迫田。住所は東下第一室から第三室。どの名にも保護者の名がない。しかも学年欄が空白でした。

午後二時、下流の軍需工場から送水を増やせと電報が来ました。黒田さんは取水弁を二目盛り開けるよう命じ、自分は水位計の前に立っていた。私は伝令で機械室へ下りたんですが、踊り場に子供の下駄が三足、きれいに揃えてありました。

朝にはありませんでした。泥がつき、鼻緒だけ新しかった。

戻ると、事務室の人数が増えたように感じました。顔を数えたわけじゃない。紙をめくる音や、咳払いが多いんです。椅子は七脚しかないのに、机の下に膝がいくつも並んでいる気がした。

黒田さんだけは普段どおりでした。娘に、学校へ戻れ、母さんを手伝え、と言い、順路表には一度も目を落とさなかった」

「怖くなかったんですか」

「午後四時までは、誰かが管理棟へ避難してきたのだと思っていました。衣料も食糧も不足していましたから、名簿にない家族をこっそり住まわせることはあり得た。

けれど四時、炊事係が夕食の椀を並べた。職員七人分に、黒田さん親子の二つ。九つです。その横へ、誰も触れていない椀が九つ置かれていました。

中身は薄い雑炊でした。湯気も立っていた。

炊事係は自分が置いたのではないと言いました。しかし片づけようとはしない。所長も松永技手も、椀を見ないようにして壁際を歩く。誰も口にしなければ、無いものにできるとでもいうように。

五時、節子さんがまた順路表を開きました。鉛筆の囲みの中に、朝はなかった線がありました。九人の名から細い線が伸び、最後に黒田節子へ戻っていた。

順路が輪になっていたんです」

「ええ」

「五時四十分、日が堤の向こうへ沈みました。灯火管制で窓に黒布を下ろすと、事務室は急に狭くなった。ラジオから警戒警報が流れ、全員が口を閉じました。

六時、廊下で下駄が鳴りました。

六時二十分、東側の壁を、内から爪でなぞるような音がした。

六時三十五分、松永技手が順路表をストーブへ入れようとしました。節子さんが紙を離さず、半分だけ破れた。松永さんは子供を叱れませんでした。紙の四番目にある鹿島一郎という名を見て、泣いていたからです。

六時四十二分、所長が話しました。ダム建設中、東の監査廊で崩落があった。宿直していた作業員と家族が巻き込まれた。正確な人数は公表されなかった。工事の遅れが新聞に出ると困るため、事故そのものが小さく書き換えられた。

それだけです。死んだとは言いませんでした。助かったとも言わなかった。

六時四十七分、誰かが私の背後で椀をすすりました。

振り向くと、事務室には十八人いました。

職員七人、黒田さんと節子さん。それから、見覚えのない九人です。濡れた国民服、継ぎの当たったもんぺ、子供用の防空頭巾。みな壁に沿って立ち、順路表を見ていました。顔は見えましたよ。けれど今となると、一つも思い出せない。同じ顔だった気も、全員が職員の誰かに似ていた気もします。

六時四十九分、ラジオの音が小さくなりました。つまみには誰も触れていません。九人が受信機の前を通るたび、声だけが布越しになるんです。

六時五十分、窓の黒布が九人分だけ内側へふくらみました。外から風は入らない。机の上の湯気が、その人たちを避けて流れました。

六時五十二分、黒田さんが夕食を始めました。

あの人には、何も見えていなかった。

『何を立ってる。冷めるぞ』

そう言って、九人が並ぶ壁際をまっすぐ歩いた。避けもしない。けれど肩が触れる寸前、九人のほうが薄く横へずれました。黒田さんは空いた椅子に腰を下ろし、椀の数を数えました。

『九つ。合ってるじゃないか』

実際には十八ありました。誰も訂正しませんでした。

六時五十五分、節子さんが父親へ順路表を差し出しました。黒田さんは受け取らず、娘の手ごと紙を伏せた。

『読むから、いることになる』

その言葉だけは、はっきり覚えています。

六時五十七分、九人が一斉に黒田さんを見ました。

恨んでいるようには見えなかった。むしろ、自分たちを見ない者がまだ一人残っていることに、安心したようでした。

七時、警報が解除されました。ラジオが明るい行進曲を流し、町内会の人が戸口から解除を告げた。すると所長が椀を重ね、松永技手が窓の黒布を上げ、皆が何事もなかったように働き始めました。

九人は消えませんでした。

誰も見ないふりをやめてしまったからです。

子供は下駄を履き、女たちは空の椀を持ち、男たちは濡れた帽子をかぶった。廊下に足音が満ちました。東側の塞がれた壁へ向かい、順に壁の手前で見えなくなった。

黒田さんは最後まで椀を九つだけ洗いました。娘が握っている半分破れた紙にも、壁へ入っていく人々にも、一度も目を向けなかった。

翌朝には、東の壁に九足分の泥がついていたそうです。そこから先のことは知りません。私はその晩で辞めました。

ただね、順路表の半分は節子さんが持って帰ったはずなのに、私の上着の内ポケットにも入っていたんです。四番から十二番までの側だけが。

読んだのは、今夜が初めてではありません。焼こうとしたこともあります。でも紙を火へ近づけると、酒席や電車や自分の家で、人数が急に合わなくなる。

だから畳んでおくんです。見なければ、こちらも数えずに済む。

ええ。あなたにも見せませんよ。

さっきから、私たちの卓に椀が三つある理由を、あなたがまだ尋ねていませんから」

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