夕刊はありません

――私は在宅で、解体前の建物を調査する会社に勤めていました。現場の人が胸元のカメラで建物を歩き、私たちはライブ配信を見ながら、残置物や危険箇所を台帳に入れるんです。
あの病院は翌月に取り壊す予定でした。閉院して七年、電気は一部だけ生きていて、顔認証式の入退館ゲートも残っていました。機器メーカーが遠隔で保守しており、作業員三人の顔は前日に登録済みでした。
一階の売店跡で、浅見さんが薄い大学ノートを見つけました。
表紙には「朝刊順路」とありました。新聞販売店の人が使っていたものらしく、通用口、守衛室、外来、三階東、三階西、と鉛筆で順番が書かれていました。病室ごとの部数や、「退院まで」「家族へ渡す」「夕刊なし」といった注意もありました。
閉院後の日付まで続いていたのが妙でした。ただ、病院には片づけの職員もいたでしょうし、日付の書き間違いもあります。私たちは深く考えませんでした。
会社では、手書き書類を生成AIに読ませて要約していました。中身をどこへ送っているのか、学習に使われるのか、誰も正確には知りませんでした。利用規約は法務が確認済みで、私たちは出てきた表を直して使うだけでした。
私は順路帳を画面越しに撮ってもらい、二十二ページ分を読み込ませました。
AIが作った表には、原本にない一行がありました。
〈地下サービス廊下 浅見理沙 一部 終了後回収〉
浅見さんは笑って、自分の名前を誰かの走り書きから拾ったんでしょう、と言いました。実際、ノートをめくった彼女の作業手袋には、油性ペンで名字が書いてありました。
その直後から、顔認証ゲートが浅見さんだけを通さなくなりました。
登録をやり直しても、画面には「対象物」と出ました。人間ではなく、台車や段ボールを検出したときの表示です。メーカー担当は光量のせいだと言い、調査は続行されました。
地下のサービス廊下には、配達用の棚が壁沿いに並んでいました。浅見さんが通るたび、棚の番号灯が順番に点きました。十二、十七、四、二十九。順路帳の病室番号と同じ順でした。
配信映像では、彼女の姿の周囲だけ四角い認識枠が細かく震えていました。顔ではなく、胸、膝、靴、ヘルメットを別々の荷物として数えていた。最後には枠が一つにまとまり、画面の右下に「配達完了」と表示されました。
その文字は、現場のカメラにそんな機能はないと判明した後も、私のモニターに残っていました。
調査はそこで中止しました。浅見さんは普通に帰宅しました。ここから先のほうが長いんです。
翌朝、社内の勤怠から彼女の名前が消えていました。社員証は無効で、給与台帳にも採用面接の録画にも記録がない。前日のライブ配信は保存されていましたが、浅見さんが映っていた部分だけ、誰もいない廊下になっていました。声も足音も残っているのに、字幕はすべて私の発言として処理されていました。
会社はシステム障害だと言いました。けれど彼女の銀行口座も、携帯電話の契約も、住民票も見つからなくなりました。
人は消えていません。浅見さんは会社の受付まで来て、私と部長の前で何時間も座っていました。ご両親も彼女を娘だと覚えていました。学生時代の友人も、写真を見れば隣にいたはずだと言いました。ただ、その写真には必ず一人分の空間だけが残っていました。
紙も同じでした。卒業文集から名前が抜け、母子手帳では出生欄だけが白くなったそうです。インクを削った跡さえなかったと聞きました。
生活は、記憶だけでは続けられません。
彼女は健康保険を使えず、再雇用もできず、賃貸契約の名義人でもなくなりました。宅配ボックスは顔認証と居住者アプリで開く型だったので、荷物を受け取れませんでした。管理会社に連絡すると、「登録のない方へは渡せない」と繰り返されました。部屋には彼女の服も食器もあるのに、システム上は長く空室でした。
私たちは役所や会社へ説明するため、あの順路帳を証拠にしようとしました。しかし病院から回収した箱には入っていませんでした。撮影画像も、AIに送った履歴も、入力を直した私の作業ログも消えていました。
それでも私たちは浅見さんを覚えています。だから最初は、まだ取り戻せると思っていました。
半年後、彼女はご両親の家で暮らし始めました。私が訪ねたとき、玄関に彼女の靴があり、台所から返事もしました。ただ、ご両親は私に、奥の部屋を見ないでほしいと言いました。
娘だとは分かる。でも、毎朝、初めて会う人のように驚くことがある。忘れてはいないのに、思い出した記録が頭の中に残らないのだ、と。
私は今も、ときどき彼女から手紙を受け取ります。差出人欄はいつも空白です。返事を書いても宛先不明で戻ってくるので、読んだことだけ電話で伝えます。
電話を切ると、通話履歴には私が自分へ電話したことになっています。
以上が、私の知っていることです。
――聞き手のあなたは、そこで長く黙ってから、少し違うと思う、と言った。
消されたのは浅見さんの記録ではない。あの顔認証も生成AIも、彼女を間違えて見失ったわけではないのではないか。
病院では、人を名前だけで扱っていたわけではない。病床、食事、検査票、会計、郵便物。ひとりの患者は、いくつもの順路を通る記録の束でもあった。新聞配達員は、その束の外側を毎朝なぞっていた。
順路帳が何を写していたのか、私たちは知らない。ただ昔の誰かが、病室を一軒として数え、退院すれば線を引いた。その判断だけを、意味も知らない機械が引き継いだ。
あなたは最後に、こう付け足した。
浅見さんは消されているのではなく、もう配り終えたものとして扱われている。だから人だけが残り、記録だけが、毎日きちんと回収され続けているのではないか。