ホラムゲン

三木さんの木曜日

焼跡脇の社員寮に掛けられた古い当番表

祖父の乾物屋が、再開発で取り壊されました。焼け残った長屋を継ぎ足した店で、天井裏から「昭和二十四年四月 協和製作所社員寮当番表」が出ました。

祖父は大陸からの引揚げ後、焼跡脇のその寮に入り、闇市で仕入れた豆を煮ていたそうです。木曜が炊事番だった、と何度も聞きました。

けれど表の木曜には毎週「三木周三」とあり、祖父の神田周三はどこにもありません。

* * *

商店街で最年長の履物屋さんに見せると、「これは仕事の表じゃない」と言いました。

復興住宅が足りず、寮には定員十二人のところへ十七人寝ていた。引揚証明や戸籍の届かない者は正式に雇えず、配給も受けられない。そこで戻らない社員の名を残し、その名で寝床と米を一人分ずつ置いた。役所の検査日に、誰がどの名前で返事をするか。それを当番表にしていたらしいのです。

祖父はしばらく三木だった、と履物屋さんは言いました。

ただ、祖父は三木さんを別人として話していました。塩を隠す癖や、寝言まで知っていました。

* * *

市に問い合わせると、理由の一部は分かりました。戦後の仮台帳では、三木周三が寮から乾物屋へ転居したことになっており、その後の住居表示変更でも訂正されていませんでした。神田周三が同じ住所に現れるのは、祖父が結婚した昭和二十七年からです。

今回の補償書類も、古い権利関係をたどって作られました。店には先月、「三木周三様相続人」宛ての封書が届いています。

父は、そんな人はいないと返送しました。しかし当番表を読み直すと、金曜の掃除欄にも三木の名があります。祖父が木曜に炊事をしたなら、金曜、三木として掃除をした人が別にいたことになります。

取り壊しの日、履物屋さんは表を捨てないでくれと言いました。

「あそこにいた人間は十七人だけど、名前は十二人分しかなかったから」

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