社内売店三号店

ええと、マイクの音、大丈夫ですか。後ろの方、聞こえてますか。ありがとうございます。……すみません、ちょっと空調の音が大きいですね。風が直接当たって寒かったら、遠慮なくスタッフの方に手を挙げてください。
今夜は、建物の話をひとつさせてください。怪談というよりは、記録の照合がつかなくなった、あるテレビ番組の制作スタッフについての話です。
時期は平成二十四年の冬でした。スマートフォンがもう完全に普及して、誰もが撮影した動画をその場でネットに上げていた頃です。六本木や赤坂や汐留、あの一帯のテレビ局って、どこも増築や移転を繰り返して、地下や連絡通路が蟻の巣みたいに入り組んでいるでしょう。とくに港区の某局は、昭和の終わりに建てられた旧館と、平成に入ってから建て増しされたスタジオ棟が無理やり渡り廊下で繋がれていて、昼間でも迷う人が出るような構造なんです。
その局の、ある深夜バラエティ番組の下請け制作会社に、久住さんという二十代後半のアシスタントディレクターがいました。テレビの現場をよく知る方ならお分かりでしょうが、当時のADの仕事量といったら、今の労務管理から見れば完全に狂気でした。局の仮眠室か、編集室のソファで二時間寝たらマシな方で、三日も四日も同じ服を着たまま、カンペを書き、テープを運び、買い出しに走る。
久住さんは几帳面な人で、どれほど徹夜が続いても、番組の制作費で落とす領収書やレシートの管理だけは絶対に怠らなかったそうです。あとでプロデューサーに怒鳴られるのが一番堪えるからですね。コンビニのおにぎり、ロケ用のガムテープ、深夜作業用の栄養ドリンク、そういった細かい支出を、小さなクリアポケットのファイルに日付順に几帳面にファイリングしていました。
その年の十二月の中旬、深夜二時過ぎのことです。 久住さんは翌朝の収録に使う小道具を買い足すために、本館地下二階のコンビニへ行ったそうです。局内には警備員や夜勤のスタッフのために二十四時間営業のチェーン店が入っています。そこで乾電池だの養生テープだのを買い、カゴを持ってレジへ行った。ところが、その時にもらったレシートを、数日後にデスクで経費精算ソフトに入力していて、おかしなことに気づいたんです。
レシートの最上部、店のロゴの下にある店舗名が、見慣れたものではなかった。
『社内売店三号店』とだけ印字されていたんです。
地下二階にあるのは、誰もが知っている大手コンビニの青い看板の店で、レシートの頭には普通、そのチェーンのロゴと『メディアタワー地下店』といった正式名称が出ます。そもそも『社内売店』という素っ気ない名称自体、三十年くらい前の表記です。しかも久住さんが知る限り、局内の売店は地下二階のコンビニと、三階の総合ロビー脇にあるカフェ兼売店の二箇所しかありません。「三号店」なんてものは、案内図のどこにも存在しない。
久住さんは疲労でボーッとする頭で、そのレシートをまじまじと見つめました。感熱紙特有の、少し青みがかった白。買い物の内容は合っています。九ボルトの角型乾電池が二個、白の布粘着テープが一巻、それと自分の夜食用に買った肉まんが一つ。金額も千百四十円で合っている。ただ、日付と時刻の欄だけが狂っていました。
『平成24年12月14日 26:18』
時刻の表記が二十四時間制ではなく、テレビ業界で使われる「二十六時」という、深夜二時を指す業界特有の符牒になっていたんです。レジのPOSシステムというのは通常、全国共通の汎用プログラムです。局内限定のシステムだとしても、わざわざレシートの印字を業界時間に合わせるような設定をメーカーがするはずがない。
「……まあ、夜勤の店員が機械をいじったのかな」
その時はそう思って、レシートを経費精算用の台紙に糊で貼り、そのまま提出したそうです。問題はその一週間後でした。経理部の担当者から、内線で久住さんのデスクに問い合わせが入ったんです。
『久住くん、この十四日のレシート、どこのレジで切った? うちのマスターデータに登録がない端末番号なんだよね。店名も三号店になってるし』
経理の画面では、地下のコンビニから上がってくる売上データと、局員や制作会社が請求してくるレシートの番号を照合するらしいのですが、その端末番号の機械から発信されたデータが、局のネットワークに存在しないというんです。偽造を疑われたわけではありません。たかだか千円少々の額ですから。ただ、経理としては勘定科目をどの売店コードに紐づければいいのか分からない。久住さんは電話口で、「いや、普通に地下二階の店で買いましたけど」と答えました。電話の向こうで経理の人が首を傾げている気配がして、その場は保留になった。
その日の深夜、編集室の片付けを終えた久住さんは、何となく気になって、もう一度地下二階へ下りてみたそうです。時間は午前二時半。局内は静まり返っていて、リノリウムの床に自分のスニーカーのキュッ、キュッという音だけが響いている。
地下二階のコンビニは、いつものように蛍光灯が白々と灯っていました。自動ドアを入って、レジにいた年配の店員に声をかけたそうです。その売店は昼間は若いアルバイトがいますが、深夜はずっと同じ白髪交じりの男性が入っていました。名札には「佐伯」とあった。
「あの、すみません。先週の金曜の深夜にここで買い物したんですけど、レシートの店名が変で」 久住さんが財布に残っていた別のレシートと見比べながら言うと、その佐伯という店員は、レジ越しにじっと久住さんの顔を見たそうです。怒るでもなく、驚くでもなく、ただ薄いガラス越しに遠くを見るような、平坦な目でした。
『お客さん、どっちから来ました?』 佐伯さんがそう訊いたんです。変な訊き方ですよね。「何を買いましたか」でも「レシートを見せてください」でもなく、「どっちから来たか」。
「どっちって……西エレベーターを降りて、そこの廊下を真っ直ぐですけど」 久住さんが指をさすと、佐伯さんは小さく息を吐いて、作業の手を止めずに言ったそうです。
『じゃあ、ここは二号店ですよ。ここは昔からずっと二号店です』
「え? でも、ここ、コンビニの○○(大手チェーン名)ですよね」
『看板はそうですよ。でも局の台帳じゃ、ここは二号店なんです。一号店は三階のロビーの奥。で、三号店は、もっと奥です。あんまり奥へ行かないほうがいいですよ。あそこは、まだ固まってないから』
固まってない。佐伯さんはそう言ったそうです。久住さんは徹夜続きの頭で、コンクリートが固まっていない、つまり工事中のエリアのことかと思った。でも、地下二階にそんな工事区画なんてあっただろうか。
(会場の右列、前から三番目の方、寒くないですか? 大丈夫ですか。……はい、続けますね)
久住さんはその場を離れましたが、どうしても引っかかった。テレビの制作をやっている人間というのは、基本的に好奇心の塊ですし、何より「知らない場所がある」ということが仕事上、許せないんですね。ロケ場所や抜け道を誰よりも把握していなければならない職種ですから。
彼は共有サーバーの制作部フォルダを漁りました。過去の特番で、局舎のバックヤードを巨大なかくれんぼの舞台にした企画があったんです。その時の美術資料の中に、社屋全体の詳細な図面データが眠っているはずでした。
ありました。昭和六十三年竣工時の建築図面スキャンと、平成十五年の増築時の改訂図面です。 久住さんは画面上で二つのPDFを重ねて比較しました。地下二階。西エレベーターを降りて左に折れると、右手にスタジオの搬入口、左手に電気室と非常用発電機室がある。突き当たりが現在コンビニになっているスペースです。増築前の図面では、そこは単に「倉庫・小道具置場」と書かれていました。そこまではいい。
おかしいのは、その突き当たりのコンビニの、さらに「先」でした。
建築図面では、コンビニのバックヤードの壁の向こうは、厚さ六十センチの鉄筋コンクリートの耐震壁になっていて、その外側は完全に「土」です。地下深くの基礎杭と地盤があるだけで、空間など存在しないはずでした。
ところが、そのフォルダの中にもう一つ、奇妙なファイルが入っていたんです。テキストファイルでした。タイトルは『B2_設備管理引継_98-04.txt』。平成十年から十六年にかけて、局の施設管理を請け負っていたビルメンテナンス会社のスタッフが残した巡回日誌の抜粋でした。
久住さんはそのファイルをスクロールしました。最初の方は、漏水箇所の点検とか、ネズミの駆除剤の配置とか、ごくありふれた業務連絡です。ですが、平成十二年の秋あたりから、記述の調子が明らかに変わってくるんです。
画面の文字を、久住さんは携帯のカメラで撮っていました。あとで見せてもらったその文面を、ほぼそのまま読み上げますね。
*
『平成12年10月19日(木)巡回:木島 地下二階、電気室裏手通路のメーター検針。通路奥の壁面に亀裂ありと総務より連絡あり、現認に向かう。亀裂ではなく、間仕切壁の増設に見える。石膏ボードの継ぎ目がパテで処理されているが、塗装が未施工。営繕課に問い合わせるも、発注の記録なしとのこと。施錠されていないアルミドアが一箇所。内部は四畳半ほどの空間。照明器具なし。床はモルタル刷毛引き。異臭なし。図面照合要す』
『平成12年11月4日(土)巡回:木島 電気室裏の未認可空間、再び確認。ドアを開けると、奥にさらに別のドアあり。開けると幅一メートル、奥行き六メートルほどの細長い廊下になっている。壁面は既存の地下通路と同じケイカル板だが、巾木の高さが不揃い。空調の吹き出し口のようなスリットがあるが、ダクトに接続されていない。微弱な吸気音あり。手をかざすと、わずかに生暖かい風が奥から吸い込まれている。図面上の外部基礎部分に侵入している形になるため、月曜に図面課と立会予定』
『平成12年11月6日(月)巡回:木島 図面課の佐藤氏と現地確認。佐藤氏、現場を見るなり「こんな工事は通していない」と激昂。だが壁をノックすると中空の音がする。石膏ボードと軽量鉄骨の間仕切りであることは間違いない。佐藤氏が壁の一部をバールで開口したところ、壁の内側に配線や断熱材はなく、ただコンクリートの床と天井が奥へ続いているだけだった。佐藤氏が懐中電灯で照らしながら奥へ入ったが、三分ほどで戻ってきた。「奥に部屋がある。机が置いてある」とのこと。施工業者の残置物か。施錠のため南京錠を取り付けるよう指示を受ける』
『平成13年3月2日(金)巡回:木島 南京錠が内側から破断していた。蝶番のネジが緩んで脱落している。内部を確認。以前確認した「机のある部屋」の先に、さらに廊下が分岐している。左手に三室、右手に二室。どの部屋もスチール製の灰皿とパイプ椅子が一脚ずつ置かれている。壁のクロスは局の標準仕様(象牙色、細目)と同じものが貼られているが、糊が生乾きで、指で押すと冷たい粘り気がある。湿度が異常に高い。六十七パーセント。局内の平均(四十五パーセント)を大きく上回る。退去を促す張り紙をドアに貼付。誰何するも返答なし』
『平成13年8月15日(水)巡回:木島 今月より夜間巡回ルートから地下二階奥の区画を除外するよう、総務部管財課より通達あり。理由は「空調負荷の偏向による測定誤差防止のため」。納得いかず、管財課長に直接確認するも、「あれは増えているんじゃない、余っているんだ」と意味不明な回答。図面上の床面積と、固定資産税の評価額に差異が生じるため、当面は壁を塞がず、立ち入り禁止のパーティションのみ設置とのこと。三号店、というチョークの書き込みがドアにあった。消去した』
*
そこでテキストファイルは終わっていました。
久住さんはその画面を見つめながら、背筋がざわざわと粟立つのを感じたそうです。平成十三年。もう十箇所以上も前の記録です。増えているんじゃない、余っている。その言葉の無気味さに、喉の奥が乾いた。
そして久住さんは、自分が十四日の深夜に買い物をしたときの記憶を、必死に巻き戻しました。
あの夜、彼は確かに西エレベーターを降りて、いつものコンビニへ向かった。搬入口の前を通り、電気室の前を通った。自動ドアを入った。……そこまではいつもの地下二階です。でも、買い物を終えて店を出たあと、彼はどこを通って戻ったのか。
編集室へ戻るまでの数分間の記憶が、すっぽりと抜け落ちていたんです。 気付いたときには、編集室のデスクで肉まんの包み紙を開けていた。熱い湯気が立っていて、具のタケノコを噛んだ感触ははっきりと覚えている。なのに、レジでお金を払ってから、自分の椅子に座るまでの動線が、頭の中に全く描けない。
久住さんはポケットからスマートフォンを取り出しました。GPSの位置情報ログが残っていないか確かめようとしたんです。当時、彼は移動ルートを自動で記録するライフログ系のアプリを入れていました。バッテリーの減りは早くなりますが、ロケハンの経路を記録するのに重宝していたからです。
画面を開いて、十四日の深夜二時前後のマップを表示させました。
地図上に青いピンが移動した軌跡が、細い線で描かれています。エレベーターを降りた久住さんの足取りは、地下二階のコンビニの入口あたりまで綺麗にトレースされていました。そこで線が急に、ぐしゃぐしゃと細かく振動するような波形を描いている。そして次の瞬間――
青い線は、建物の外壁を突き抜けていました。 局舎の外、道路の地下、隣接するビルの地下構造物すら通り越して、港区の住宅街の地下深く、何もない暗闇の空間へ向かって、すうっと一本の真っ直ぐな線が伸びていたんです。距離にして、約百二十メートル。
そしてその先端、何もない地下の深度三十メートルほどの地点に、ひとつの滞在ポイントが打たれていました。 滞在時間、八分。 ラベルには、アプリが勝手に最寄りの施設名から拾い上げたのか、それともシステムが自律的に取得したのか分からない文字列が、無機質に表示されていました。
『社内売店三号店』
久住さんは、その画面を見た瞬間に、全身の毛穴が開くような恐怖を覚えたと言います。自分は外へ出ていない。外に出るためには警備員がいる通用口を通らなければならないし、深夜のその時間、通用口のフラッパーゲートに彼のIDカードが通された記録はありませんでした。
彼は、歩いて行ったんです。局の地下から、壁の向こうへ。
(客席の方、何人かすみません、身を乗り出していただいて。舞台の上から見ていると、皆さんの顔が青白いスマートフォンの画面みたいに見えますよ。……ふふ、脅かすつもりはないんです。ただ、この話にはまだ先がありましてね)
久住さんは、確認せずにはいられなくなりました。テレビのディレクターというのは、こういう時、本当に引き返せない人種なんです。彼は小型のハンディカムを右手に持ち、録画ボタンを押した状態で、再び地下二階へ向かいました。
十二月二十日の午前三時少し前でした。 局内は完全に「死んだ時間」です。生放送のニュースも終わり、早朝番組のスタッフが出勤してくるまでの、もっとも人間の気配が希薄になる時間帯。
久住さんは西エレベーターを降りました。スニーカーの音が廊下に反響します。ハンディカムの小さな液晶画面には、深夜の殺風景な廊下が映し出されている。電気室の扉を過ぎ、コンビニの青い看板が見えてきました。自動ドアのガラス越しに、店内の明かりが見える。
でも、久住さんはコンビニには入りませんでした。その手前、電気室の脇にある、普段は誰も気に留めない、防火扉の影になっている細い隙間に目を留めたんです。
そこには、以前は清掃用具のカートや、「故障中」の張り紙がされた古い自販機が無造作に積み上げられていました。ですがその時は、それらの障害物が、まるで誰かが通り道を作るために押し分けたかのように、両脇へ綺麗に退けられていた。
奥に、ドアがありました。 スチール製の、塗装がされていない灰色の防火ドアです。ノブに手をかけると、鍵はかかっていませんでした。驚くほど滑らかに、何の音もなくドアが開いた。
久住さんはカメラを構えたまま、その中へ足を踏み入れました。
最初に感じたのは、温度でした。暖かいんです。局内の廊下は冬場、底冷えがするほど寒いのに、そのドアの向こうは、まるで誰かがずっと暖房を入れていたかのように、もわっとした生ぬるい空気が満ちていた。湿度は高く、どこか古い紙と、糊のような、あるいは濡れた石膏のような匂いが立ち込めていました。
廊下でした。幅は一メートル半ほど。壁にはアイボリーのクロスが貼られていて、天井には等間隔に蛍光灯が設置されている。けれど、その蛍光灯の光が、妙に黄色くて暗い。四十年くらい前の、古いオフィスビルの光です。
久住さんはゆっくりと進みました。足元はグレーのタイルカーペットです。歩いても足音がしない。静かすぎるんです。空調の吹き出し口は天井にあるのに、風の流れる「コー」という音が一切しない。無音でした。完全な無音。
両側に扉が並んでいました。どの扉にも、部屋番号のプレートが入る枠だけがあって、中は空欄でした。ただの四角いアクリルの窓です。 久住さんは一つの扉のノブを回して、中を覗きました。六畳ほどの部屋でした。窓はありません。中央に、会議用の長机が一台と、折りたたみ椅子が二脚。机の上には、灰皿が一つ。灰皿の中には何も入っていない。新品のように綺麗でした。
次の部屋も同じでした。その次の部屋も。ただ、部屋の配置が、どこか狂っている。 右側の部屋に入って、奥の壁に手を触れると、隣の部屋との境目のはずなのに、壁の向こうからかすかに、何かが擦れるような、ごそごそとした振動が伝わってくる。
久住さんはカメラを回しながら、日誌の記述を思い出していました。 『余っているんだ』 管財課長が言ったというその言葉。空間が余る? そんな馬鹿なことがあるはずがない。建物というのは、設計されて、基礎が打たれて、コンクリートが流し込まれて作られるものです。勝手に部屋が増えるわけがない。
でも、彼の目の前にある廊下は、明らかに先へと続いていました。二十メートル、三十メートル。もうとっくに局の敷地を越えて、公道の下に入っているはずの距離です。
進むにつれて、内装の様子が少しずつ変わっていきました。 最初のうちは綺麗に貼られていた壁紙が、だんだんと雑になってくる。継ぎ目が合っていなくて、下の石膏ボードの黄色い肌が剥き出しになっている。天井の高さも、最初は二メートル四十センチほどあったのが、徐々に低くなって、手を伸ばせば届きそうな高さになってくる。まるで、図面を見ずに、記憶だけを頼りに誰かが手探りで作ったかのような空間。
そして、曲がり角が現れました。直角ではなく、百十度くらいの、中途半端で緩やかなカーブです。そのカーブを曲がった時、久住さんは立ち止まりました。
前方に、明かりが見えたんです。
ガラス張りの、小さなスペースでした。看板はありません。でも、外から見てもそれと分かる、売店の構造をしていました。白いスチール棚が数段並んでいて、その上に商品が置かれている。そして、奥に小さなカウンターがあり、レジスターが一台、置かれていました。
あのレシートの場所でした。
久住さんは息を殺して、カメラのレンズ越しにその売店を見つめました。店内に人影はありません。蛍光灯のジジジジという微小な放電音だけが、耳に届く。
彼は引き返そうとしました。さすがにこれ以上はまずい、本能がそう警告した。けれど、足が勝手に前へ進んでしまったそうです。ディレクターとしてのサガなのか、それともあの空間自体に、人を前へ引きずり込むような傾斜があったのか。
売店の中に足を踏み入れました。 棚に並んでいる商品を見て、久住さんは胃のあたりが急速に冷たくなるのを覚えました。
おにぎりが並んでいました。でも、パッケージに印刷されている文字が、読めないんです。日本語のフォントに似ている。フォントの配置や、原材料名が書かれている四角い枠、バーコードの位置まで、すべて見慣れたコンビニのおにぎりと同じでした。けれど、そこに書かれている文字が、漢字でも平仮名でもカタカナでもない。記号を複雑に組み合わせたような、意味を持たない線の集まりでした。消費期限の欄だけが、はっきりと読めた。
『平成24年12月20日 27:45』
その日の、数時間後の時間でした。
ペットボトルの茶も並んでいました。緑色の液体が入ったボトル。パッケージには茶畑のような写真が印刷されているけれど、よく見るとそれは茶畑ではなく、無数の小さな直方体が敷き詰められた、見たこともない風景の写真でした。
そして、レジカウンターの上に、何かが置かれていました。
小型のトレイ。お札や小銭を置く、あの青いプラスチックのトレイです。そのトレイの上に、名刺が一枚、伏せて置いてありました。久住さんは、震える手でカメラを左手に持ち替え、右手でその名刺を裏返しました。
自分の名刺でした。
久住さんの氏名、制作会社のロゴ、社用携帯の番号、局の内線番号。すべて彼が普段使っている名刺そのものでした。ただ、肩書きの欄だけが違っていた。
『社内売店三号店 店員』
その文字を見た瞬間、レジカウンターの奥にある、従業員用の出入り口――細い通路の暗闇の奥から、音が聞こえたそうです。
カチ、カチ、カチ、カチ。
ステープラーを芯なしで空打ちするような、硬質で規則的な音。それが、暗闇の奥から少しずつ、こちらへ近づいてくる。
久住さんはカメラを放り出しそうになりながら、踵を返して走りました。後ろを振り返る勇気はなかったそうです。ただひたすらに、天井の低い、手探りで作られたような廊下を逆戻りした。走っても走っても、足元のカーペットが音を吸い込んで、自分が進んでいるのかどうかも分からない。壁に肩をぶつけ、剥がれかけた壁紙を爪で引き裂きながら、無我夢中で走り続けました。
ようやく前方に、あの灰色の防火扉が見えた。 彼は体ごと扉にぶつかって外へ飛び出しました。冷たい空気。エレベーターホールの蛍光灯の、白く眩しい光。床を擦る自分の足音。
彼は床にへたり込み、荒い息を吐きながら、飛び出してきた扉を振り返りました。
扉は、ありませんでした。
そこにあったのは、以前と同じ、清掃用具のカートと、故障中の自販機がぎっしりと押し込まれた、ただの埃っぽいデッドスペースでした。壁を叩いても、コツコツと詰まったコンクリートの鈍い音が返ってくるだけだったそうです。
(会場の皆さん、静かですね。ありがとうございます。……でも、話はこれで終わりじゃないんです)
久住さんはその足で編集室へ戻り、持ち帰ったハンディカムの映像を確認しました。逃げる間も、カメラはずっと回っていたはずでした。
SDカードをPCに差し込み、動画ファイルを再生しました。 画面には、久住さんが地下二階を歩く姿……ではなく、カメラが捉えた主観映像が流れていました。エレベーターを降り、コンビニの前を通り、自販機の脇へ入っていく。そこまでは完全に一致していました。
しかし、彼が防火ドアを開けた瞬間から、画面の様子が変わったんです。
ドアの向こうに映っていたのは、黄色いオフィス風の廊下ではありませんでした。
白くて、半透明の、分厚い膜のような組織でした。
カメラのレンズがその膜を押し分けて中へ入っていくと、そこは巨大な、管の内部のような場所でした。リブ状の節が等間隔に並び、壁面全体が呼吸するようにわずかに収縮を繰り返している。ケイカル板や石膏ボードのように見えていたものは、その管の内壁から分泌された、炭酸カルシウムのような白い結晶質の分泌物でした。
そして、あの売店。
画面に映っていたのは、管の終端に形成された、袋状の大きな空洞でした。そこに並んでいたスチール棚やおにぎり、ペットボトルに見えたものは、すべてその空洞の内壁からイボのように突出した、体組織の変形物でした。人間が日常的に持ち込む物質の形状を、見よう見まねで模倣したような、肉の塊。
レジスターに見えていた突起の上に、あの名刺が乗っていました。名刺は紙ではありませんでした。久住さんの名刺の形と印字を、そのまま皮膚の表面に色素沈着させたような、薄い生体組織片でした。
そして、奥の暗闇から近づいてきたもの。
カメラの暗視モードが、一瞬だけそれを捉えていました。硬い殻を持った、人間の背丈ほどもある多足の構造体です。それが、脚の先で規則正しく床を叩きながら――カチ、カチ、カチ、カチと音を立てながら、新しい「部屋」の枠組みを、口から糸のようなものを吐き出して紡ぎ出していた。
それは、建物を建て増ししていたのではありませんでした。 建物という巨大な人工の洞窟に寄生して、自らの体の一部として「部屋」を分泌し、増殖させていたんです。 あのビルメンテナンス会社の日誌にあった『余っている』という言葉の意味が、そこでようやく分かりました。人間が作った空間の隙間に、未知の何かが入り込み、建物の皮膚を真似て、自分自身の肉を『部屋』の形に硬化させていた。
久住さんはその映像を見たあと、恐怖のあまりデータを完全に消去しようとしました。ですが、ゴミ箱にドラッグ&ドロップしても、エラーが出て消せない。『ファイルは別のプロセスによって使用されています』という、あの決まり文句のアラートが出るだけだったそうです。
その二日後、久住さんは制作会社を辞めました。実家のある山形へ帰る、とだけ言って、携帯の番号も変えてしまった。
……さて。この話には、後日談というか、奇妙な続きがあります。
久住さんが辞めたあと、彼が使っていたデスクやパソコンは、新しく入ってきた別のADの男の子に引き継がれました。名前を佐野くんと言います。
佐野くんは久住さんの几帳面さとは正反対の、大雑把な性格でした。領収書の管理もずさんで、いつもポケットにレシートを丸めて突っ込んでいるようなタイプです。その佐野くんが、入社して一ヶ月ほど経ったある夜、共有フォルダの整理をしていたそうです。
すると、久住さんが残していった引き継ぎフォルダの中に、消せなかったはずのあの動画ファイルが、まだ残っていた。 佐野くんは何の気なしに、その動画をダブルクリックして開いたそうです。
でも、再生された映像は、久住さんが見たものとは全く違っていました。
映っていたのは、どこかの居酒屋でした。カウンター席が数席と、小さな小上がりのある、ごく普通の赤提灯の店です。ただ、メニューの短冊に書かれている文字が、すべて読めない記号の羅列になっている。そして、カウンターの奥から、カチ、カチ、カチ、カチと、あの硬い音が聞こえてくる。
佐野くんは「なんだこれ、変なインディーズ映画の素材かな」と思って、すぐにウィンドウを閉じたそうです。気にも留めなかった。
それから数日後、佐野くんは番組のロケハンで、新宿のゴールデン街の近くにある古い雑居ビルの地下へ行きました。昭和四十年代に建てられた、迷路のようなスナック街です。そこで数軒の店を回ったあと、佐野くんは近くのコンビニでお茶を買い、領収書をもらいました。
翌朝、佐野くんが財布から出したそのレシートを、同じ制作会社の同僚が見せてもらったそうです。
レシートの上部には、こう印字されていました。
『地下飲食街四号店』
佐野くんは、そのレシートを見ながら、不思議そうに首を傾げていたそうです。「ここ、チェーン店なのに、変な名前っすよね」と笑いながら。
でも、その同僚は気付いたんです。佐野くんの首筋、シャツの襟のすぐ上の皮膚に、小さな、アザのようなものができているのを。長方形の、四角いアザでした。まるで、名刺のサイズそのままの形をした、薄い茶色いシミのようなアザが、襟元にぴったりと張り付いていたそうです。
それから間もなく、佐野くんは急に「実家を継ぐ」と言って、会社に来なくなりました。彼がどこへ行ったのか、本当に実家へ帰ったのか、誰も確かめていません。
ただ、港区のあのテレビ局の地下二階、電気室の脇には、今でも清掃用のカートが不自然に積み上げられています。そして、ビルの設備管理会社の間では、ある暗黙の申し送りが、今でも引き継がれているそうです。
――夜間の巡回時、図面にないドアを見かけても、絶対に開けてはならない。 ――もし開けてしまっても、中のものを持ち帰ってはならない。 ――とくに、自分の名前が書かれた紙が落ちていても、絶対に触れてはならない。
あの生き物が、次にどんな形の「部屋」を分泌し、誰の生活を模倣し始めているのか、それは誰にも分からないからです。
……あ、ちょうどお時間ですね。次の語り手の方にマイクをお渡しします。ご清聴、ありがとうございました。あ、皆さん、帰り道、駅の地下通路を歩くときは、壁の継ぎ目にはあまり目を凝らさない方がいいですよ。万が一、隙間からぬるい風が吹いてきても、絶対に覗き込まないでくださいね。