ホラムゲン

転入履歴

薄暗い保健所の事務室、書類の山と空席

平成十年五月十二日付

最初の書類を見たのは昼休みが終わった直後だった。別の市からこちらへ転入してきた児童の、予防接種の記録と健康診断票。すべて揃っている。理由欄には「保護者の転居による」とだけ。よくある文面だ。

書類を閉じた十分後、カウンターに電話がかかってきた。相手はその市の保健所からで、別件の照会だった。そういうこともある。

平成十年六月二十三日付

また転出していた。同じ児童が、今度は北の方の町へ移っている。一ヶ月しか経っていない。健康状態に問題はなく、接種も予定通り。こちらの記録を転送する手配を済ませた。

翌日、帰り道のコンビニで買った夕刊に、その町の小さな祭りの記事が載っていた。写真には神社の鳥居と提灯。読んだ覚えのない町名だったが、どこかで見た気がした。書類の中で見たからだ。

平成十年七月三十日付

また戻ってきていた。最初の市ではなく、こちらの隣の区へ。今度は理由欄が「保護者の就業先変更に伴う」となっている。問題ない。記録を引き継いで、所定の棚に綴じた。

その週、研修で隣の区の施設へ行った。駅を降りたとき、ここへ来るのは初めてだと思ったが、道の感じが妙に分かる気がした。地図を見なくても曲がる場所が分かるような、そんな感覚。書類で見た住所の近くだった。

平成十年九月八日付

四度目の転入。今度は南の、海に近い地区。接種履歴は途切れていない。どの書類も、手続きに一切の乱れがない。誰かが丁寧に、順を追って、すべての記録を運んでいる。

書類を整理している最中、ラジオから海沿いの道路工事のニュースが流れた。その地区の名前が読み上げられた。工事は来月までかかるという。アナウンサーの声がやけに近く聞こえた。

平成十年十月二日付

最後の書類。またこちらへ戻ってきていた。五回目の転入。理由欄は「保護者の希望により」。それ以上は書かれていない。

この書類には、小さな附箋が貼られていた。「以降の移動なし・記録完結」と青いペンで書かれている。誰が貼ったのかは分からない。だが、その一文を見たとき、妙な安心が来た。

児童の名前は書類の中にしかない。どんな顔をしているのかも、今どこにいるのかも、私は知らない。ただ、平成十年の五ヶ月間、何度も場所を移りながら、きちんと記録を残し続けた誰かがいた。

書類を閉じると、電話も、ラジオも、夕刊も、もうその地名を告げなかった。偶然は偶然のまま、静かに遠のいていった。

それでも、ときどき思い出す。あの五ヶ月の間、私が書類を開くたびに、どこかで誰かが同じ場所のことを考えていたような、そんな気がする。

考えすぎだ。そう思いながら、書類は今も棚の奥に眠っている。

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