広報みなつき 第四十九号

本誌はこれまで、閉山した炭鉱町に残る言い伝えをいくつか取り上げてきた。今回扱うのは、北九州から東北にかけての旧産炭地のうち、現在は隣市に編入されて地名も消えた「湊月町(みなつきまち)」に関するものである。資料は少ない。町役場の文書は合併時の整理でほとんど廃棄され、残っているのは町が出していた広報紙の綴りだけだ。それも全号ではない。隣市の図書館が寄贈を受けた分、第十一号から第七十三号まで、欠号を含めて四十数冊である。
湊月町には町立の療養所があった。正式には湊月町立湊月療養所。設立は昭和二十八年、炭鉱会社が出していた診療所を町が引き取ったかたちで、肺を悪くした坑夫と、集団就職で町の紡績工場に入ってきた少年少女を主に収容した。六人部屋が四つ、個室が二つ。木造の平屋で、山側に日光浴のための縁側が長く張り出していた。
広報紙は月に一度、町の各戸と療養所の各室に配られた。謄写版刷りの両面一枚。表に町の人事と工事の予定、裏に農事の注意と「お知らせ」。療養所に配られる分だけは、裏面の下半分に枠が設けられていて、「ご回復者」という見出しの下に、退所した人の名前が三人か四人、ならんで刷られていた。
当時を知る元職員に話を聞くことができた。昭和三十四年から三十九年まで療養所で給食に携わっていた女性で、現在は隣市の団地に一人で住んでいる。
「名前が出るのを、みんな楽しみにしとりました。あれが出たら、もう帰れるんだと。退所の日取りが決まると、婦長さんが紙に書いて町役場に持っていって。翌月の広報に乗るんです」
職員たちは、それを「乗せる」と言った。
「乗せてもらえんかねえ、と、患者さんが言うんです。まだ無理よ、と婦長さんが笑う。そういうやりとりでした」
入所者名簿は失われているが、広報紙の「ご回復者」欄は残っている。本誌は第十一号から第七十三号までの欄に出る名前をすべて書き写した。延べ二百十四名。重複はない。欄外に小さく「※ご回復者欄は毎号四名までとさせていただきます」と刷られている号がある。昭和三十三年の夏以降、この但し書きが毎号入るようになる。
四名まで。療養所の規模からして、月に四人退所するのは多い。そう思って元職員に尋ねると、彼女は少し考えてから言った。
「四人、揃わん月もあったでしょうに、いつも四人でしたねえ」
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湊月の炭鉱は昭和四十一年に閉山した。療養所は四十三年に閉鎖され、翌年、建物は解体されている。町は四十六年に隣市へ編入され、湊月という地名は字名としてだけ残った。その字名も、昭和五十年代の住居表示の整理で消えた。
本誌が湊月に関心を持ったきっかけは、まったく別の取材である。昭和五十八年、隣市の市史編纂室が、合併前の旧町村の広報紙を整理していた。担当していた元教員の男性が、湊月町分の綴りを見ていて気づいたことがある。
「ご回復者欄に名前のある人が、同じ年の町の死亡届に出てくるんです。一人や二人なら、退所してすぐ亡くなったんだろうと思いますが」
男性は照合できた範囲で数えた。延べ二百十四名のうち、退所から半年以内に町内で死亡届が出ている者が、少なくとも百九十名。
「療養所から出たあと、家で亡くなっている。そういうことかと最初は思いました。当時の結核はそういうものでしたから。ただ、こちらに移った人の記録も追えたんです。町外に出た人は、ほとんど生きとるんですな。東京、大阪。長生きしとる人もおる」
町に残った者が死に、町を出た者が生きた。
「で、妙なことに気づきまして」男性は続けた。「ご回復者欄は、退所した人を載せとるんじゃない。載せた人が退所しとるんです」
順序の話である。
療養所の退所は、婦長が日取りを決め、紙に書いて役場に持っていく。翌月の広報に名前が出る。そこまでは元職員の証言と一致する。だが男性が見つけた役場側の起案用紙──広報の原稿として綴られていた数枚──には、名前のほかに日付が二つ書き込まれていた。一つは退所予定日。もう一つは、それより前の日付である。
「印刷の日付でもない。配布の日付でもない。なんの日付か、わたしにはわからんのです」
起案用紙は現在、市の文書館に移管されている。本誌も閲覧した。鉛筆の走り書きで、名前の横に「九/十二」「九/十四」などと入っている。退所予定日は別の欄に、青インクで記されている。鉛筆の日付は、必ず退所予定日より四日から六日早い。
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元職員の女性に、この話をした。彼女は長いあいだ黙っていた。
「ああ、あれは。日光浴の日ですよ」
療養所には日光浴の順番があった。縁側は長いが、午後にちょうど日の当たる場所は限られていて、そこに籐の寝椅子が四つ置かれていた。四つ。順番表が廊下に貼ってあり、婦長が週ごとに書き替えた。
「あそこに寝るのを、みんな喜んでました。選ばれるんですから。もう良くなってきたから日に当たりなさいという意味でしたから」
寝椅子に寝た者の名前が、翌月の広報に乗る。乗った者が退所する。退所した者が、家で死ぬ。
「順番表は婦長さんが作っとりました。あの人は湊月の生まれで、お母さんが、昔その、山の神様のほうのことをやっとった人で」
女性はそれ以上言わなかった。本誌も重ねて聞かなかった。
ただ、縁側の配置については確認できた。解体前に撮られた写真が市史に収録されている。山側の縁側、軒の出が深く、午後の日が入る範囲が狭い。写真には寝椅子が三つ写っている。四つ目があったはずの位置に、床板の色が違う四角い跡がある。
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平成に入って、この話を調べていた人がいる。元教員の男性の娘で、湊月の跡地に建った市営団地で育った女性だ。彼女は父の資料を引き継ぎ、広報紙に名前のあった人の遺族を訪ね歩いた。
見つかったのは九軒。そのうち六軒で、同じことを言われたという。
「広報に名前が出たとき、家で祝ったんです。赤飯を炊いて。近所にも配って」
町ではそれが習いだった。療養所から誰かの名前が乗ると、その家は赤飯を炊き、隣組に配る。配られた家は、祝いの返しに、縁側に干してあるものを一つもらっていく。手拭いでも、枕掛けでもいい。療養所から持ち帰った洗濯物の中から一つ。
「病気が治ったものをもらうんですよ。あやかるんです」
町の全戸に、療養所の布が少しずつ行き渡っていた。
女性は平成七年に調査をやめている。本誌が連絡を取ったとき、彼女は団地の自治会の仕事をしていて、取材には応じたが、調査の記録は見せてくれなかった。
「もう人が住んでる土地の話ですから」
それだけ言った。
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湊月療養所の婦長の名は、広報紙の人事欄に二度出てくる。昭和二十八年の任命と、昭和四十三年の退職。退職後の消息はわからない。隣市の名簿には出てこない。
gご回復者欄が四名までになった昭和三十三年の夏、湊月では坑内の出水で坑夫七名が亡くなっている。町史に一行ある。療養所の収容人数は、その年から減りはじめ、以後増えていない。
本誌が確認できなかったことが一つある。広報紙の綴りには第四十九号が欠けている。昭和三十四年十一月分。図書館の受入目録には「第四十九号 一部」と記録があり、現物は確認できない。整理の過程で紛失したものと見られる。
元職員の女性に最後に会ったとき、彼女は団地の集会室でお茶を淹れてくれた。窓の外で子供が自転車を練習していた。
「十一月は、わたしが給食に入ってはじめての冬でした。あの月は、乗った人がおらんかったはずなんです。寒くて、縁側に出せる人がおらんかったから」
四名まで、と但し書きのある号が、それでも毎号四名を載せていた。
「でも婦長さんは、ちゃんと紙を持っていきましたよ。四人分、書いて」
誰の名前を、と聞いた。
女性は湯呑みを拭いて、棚に戻した。
「もう、おしまいにしましょう。わたしも長いことお話ししました」
集会室の時計が四時を打った。彼女は電気を消して、鍵を閉め、次の当番の人に渡す鍵の札を確かめた。帰りぎわ、廊下の掲示板に市の広報が貼ってあった。健康診断の日程と、ごみの収集日と、敬老行事の案内。
彼女はそれを少し見てから、自分の部屋へ帰っていった。