ホラムゲン

青い灰皿

閉店後のホームセンターと開かれた卒業アルバム

この話は、私が直接その人から聞いたものではない。

平成六年の秋、大学時代の知り合いだった横田が、引っ越しを手伝った礼に夕飯をおごってくれた。そのあと彼の部屋へ戻り、床に座って煙草を吸っていたときに聞いた。

横田は、駅前のレンタルビデオ店で一緒に働いていた久保から聞いたという。久保は、姉の真紀から聞いた。実際にホームセンターで働いていたのは、その真紀だった。

だから細かい会話まで正確かは分からない。ただ、横田は普段から話を盛る人ではなかった。ビデオの返却日をごまかす客の話でさえ、面白く言おうとせず、曜日と延滞料金を先に説明するような男だった。

真紀が勤め始めたのは平成三年の春だった。

県道沿いにできたばかりのホームセンターで、平屋の建物に園芸館と資材置場が付いていた。周囲にはまだ田んぼが残り、夕方になると肥料売場のビニール屋根に虫が集まった。店の向かいには自動車用品店、少し先には久保の働くレンタルビデオ店があった。

真紀は商業高校を出たばかりで、サービスカウンターに入った。合鍵、木材のカット受付、軽トラックの貸出、迷子の放送、領収書の書き直しまで、客が売場で済ませられない用事はだいたいそこへ来た。

値札や案内札は、事務所のワープロで作った。印字した紙を切り、色画用紙に貼って透明フィルムをかける。真紀は文字の中央揃えがうまく、夏には店内の札の半分ほどを任されていた。

当時、学校の怪談を集めた本がよく売れていた。園芸用品の主任が昼休みに一冊持ってきて、女子更衣室のロッカーの上へ置いた。若い店員が回し読みし、真紀も何話か読んだらしい。

けれど怖がるというより、自分たちの学校にも似た話があったと言い合うだけだった。夜の音楽室だとか、使われていない階段だとか、どこの学校にもありそうなものばかりだった。

真紀はその年、中学の同窓会の幹事を引き受けていた。

昭和六十三年に卒業した学年で、卒業後まだ三年しか経っていなかったが、就職で町を出た者も多かった。携帯電話を持っている者はいない。実家へ電話をかけ、留守なら母親に伝言を頼み、ポケベルの番号を知っている相手には店の電話番号を入れた。

住所や返事を書き込むため、真紀は卒業アルバムを職場へ持っていった。休憩中に開き、顔写真の下へ鉛筆で小さく丸をつけた。結婚した先生には二重丸、転居先の分からない同級生には薄い三角をつけた。

アルバムの後半には、「校内の一日」と題された見開きがあった。

生徒の写っていない小さな写真が十八枚並んでいた。朝の昇降口、手洗い場の蛇口、理科室の元栓、図書室の窓、体育館の消火器、飼育小屋の掛金。卒業生には評判の悪いページだった。どうして友達の顔ではなく、蛇口や錠前を載せたのかと、在学中から笑われていた。

真紀も久しぶりに見て、こんな写真まで残す必要があったのかと思ったそうだ。

ホームセンターの閉店作業にも、十八の確認箇所があった。

店は午後八時に閉まる。客を送り出すと、二人一組で売場を回った。木材カット機の電源、灯油売場の鎖、園芸館の水栓、倉庫の勝手口、脚立置場、貸出車の鍵。売場図に赤い番号が振られていて、順番どおりに見ていく。

最後に事務所へ戻り、二人のうち一人が「異常なし」と言う。事務員が確認表の十八番へ丸をつけ、それで終わりだった。

開店したばかりの店なので、決まりは細かかった。だが半年もすると、いちいち図を見なくても回れるようになった。園芸館の担当者が休みなら水は使われていない。貸出車が朝から出ていなければ鍵も動いていない。そういう日は、遠くから目で見ただけで済ませる箇所も出てきた。

最初に飛ばしたのは十二番だった。

九月の雨の強い夜で、十二番は園芸館の外側にある水栓だった。そこへ行くには、いったん屋根のない通路へ出なければならない。真紀と組んでいた年上の店員が、今日は誰も使っていないと言った。蛇口は売場の中から見えたし、水も流れていなかった。

二人は通路へ出ず、十三番へ進んだ。

翌朝、真紀が休憩室でアルバムを開くと、「校内の一日」の十二枚目が変わっていた。

以前は中学校の飼育小屋だったはずの場所に、ホームセンターの水栓が写っていた。雨で濡れたコンクリートと、壁に巻かれた緑色のホースまで見えた。

写真は貼り足されたようには見えなかった。ほかの十七枚と同じ網点で印刷され、下には小さく「水をとめる」とあった。見慣れたアルバム会社の書体ではなく、店のワープロで真紀がよく使う丸みのある文字だった。

真紀は、自分で何か貼ったのかと疑った。だが写真を撮っていない。店にカメラを持ってきたこともなかった。

昼過ぎ、ポケベルが鳴った。

表示されたのは、隣町に嫁いだ同級生、悦子の実家の番号だった。公衆電話からかけ直すと、悦子が出た。同窓会の話ではなく、アルバムのことだった。

「十二番の写真、あれ、あんたの店じゃない?」

悦子は自分のアルバムを実家から持ってきていた。朝、子どものころの写真を夫に見せようとして、見覚えのない水栓に気づいたという。

濡れた床も、緑のホースも、文字も同じだった。

真紀は冗談だと思い、写真の右下に何があるか尋ねた。悦子は、白い値札の裏が少しだけ写っていると答えた。真紀のアルバムにもあった。前日に風でめくれ、表を壁側へ向けた値札だった。

二人はしばらく黙ったあと、同じ印刷会社だから何か取り違えがあったのだろうという話にした。三年前に刷られた本へ、今年できた店が写っている点には触れなかった。

その日の閉店確認は、十八箇所すべて見た。水栓にも手で触れた。

翌朝、写真は増えていなかった。

一週間ほどして、今度は七番が変わった。

その夜、木材カット機は午後から故障中の札を下げていた。誰も使えないのだからと、真紀たちはコンセントを確かめずに通り過ぎた。

翌日の七枚目には、カット機の裏側が写っていた。太いコードが抜かれ、先端が床へ垂れていた。写真は機械と壁の狭い隙間から撮られていた。その場所へ人が入るには、機械を手前へ動かさなければならない。

同じ写真が、悦子のアルバムにもあった。別の同級生が持つ一冊にも出ていた。その同級生は町から八十キロほど離れた寮に住んでいた。

真紀たちは、ほかの十六枚を見直した。

昇降口だと思っていた一枚目には、校名の入ったものが何も写っていなかった。二枚目の手洗い場も、学校だと決めつけていただけで、蛇口と白い壁しかない。理科室の元栓、図書室の窓、体育館の消火器。場所ではなく、閉めるもの、切るもの、戻すものばかりだった。

十八枚は学校生活の記録ではなかったのかもしれない。

そう思ってから見ると、写真の順番はホームセンターの確認経路と同じだった。一番の正面入口から始まり、園芸館、木材売場、資材倉庫を回って、最後に事務所へ戻る。

校舎と店では形も広さも違う。それでも、確かめるものだけが同じ順序で並んでいた。

店長には七番の写真だけを見せた。

店長は印刷の仕組みなど分からないと言い、勤務中に私物を広げるなと注意した。閉店確認については、故障中でも電源を見るよう念を押した。それで話は終わった。

真紀はアルバムを家へ持ち帰った。店へ置かなければ何も起きないと思ったらしい。

しかし十月末、十六番が変わった。

真紀はその日、早番で午後六時に帰っていた。閉店確認をしたのは別の二人だった。資材置場の鎖を見忘れたと、翌朝になって一人が話していた。

アルバムは真紀の部屋にあった。それでも十六枚目には、夜の資材置場が写っていた。鎖は柱に巻かれたままで、道路側へ渡されていなかった。

悦子の一冊も、寮にある一冊も同じになった。

それから店では、確認表をワープロで作り直した。十八項目の横に、担当者が一つずつ印鑑を押す欄ができた。面倒だと不満は出たが、飛ばす者はいなくなった。

写真も変わらなくなった。

ただ、最後の十八枚目だけは、もともと何を写したものか誰も思い出せなかった。

卒業当時からあったはずなのに、真紀も悦子も、ほかの同級生も説明できなかった。事務机の端と、黒い電話機のコードのようなものが写っていたという者もいれば、最初から白紙だったという者もいた。

十一月のある夜、閉店間際に返品の客が来た。

真紀が応対している間に確認が始まり、途中から追いついた。十八箇所はすべて回った。印鑑も十七番までは押した。

事務所へ戻ると、店長が仕入先と電話中だった。事務員はレジの違算を調べていた。真紀たちは入口で少し待ったが、先に着替えてよいと手で示された。

誰も「異常なし」と言わなかった。

十八番の欄は空いたままになった。

翌朝、アルバムの最後に見開きが増えていた。

学校名も題もなく、小さな写真が横に並んでいた。最初の写真はホームセンターのサービスカウンターだった。緑のエプロンをつけた真紀が、卒業アルバムを開いている。顔はうつむいて見えなかった。

二枚目は、向かいのレンタルビデオ店だった。

返却口の横で、えんじ色の制服を着た男が電話を耳に当てていた。真紀の弟の久保が、数年後に働くことになる店だった。その時点では、久保はまだ高校生で、採用も決まっていなかった。

三枚目は、真紀にも久保にも見覚えのない六畳間だった。

床にビデオテープの箱が積まれ、窓際にワープロが置かれていた。紺色のジャンパーを着た男が、座ったまま誰かに話している。写真の端には、引っ越し用の段ボールが重なっていた。

横田が平成六年まで住んでいた部屋は、ちょうどそういう部屋だった。レンタルビデオ店を辞めた久保が、横田にこの話をしたのも、そこだったという。

四枚目には、青いガラスの灰皿が大きく写っていた。

向かい合って座る二人の手だけが見え、片方は煙草を持ち、もう片方は畳の上へ置かれている。その袖口には、白い糸が少し出ていた。

横田からこの話を聞いた夜、私たちの間にも青い灰皿があった。私の右袖は、引っ越しの荷物に引っかけて縫い目がほどけていた。

その四枚の写真について、横田は久保から聞いたと言った。

久保は真紀から聞いた。

真紀がアルバムを開いたのは、平成三年十一月の朝だったそうだ。

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